2019年09月15日

「生ける神に仕える」

テサロニケ第一1:9〜10 島津吉成師

ここには、キリスト者になるとはどういうことなのか、ということが記されています。
1.偶像を捨てて
テサロニケの町の人々は、ギリシャ神話に登場する神々の世界に生きていました。テサロニケ教会の人たちは、そのような中から偶像を捨てて、生けるまことの神に仕えるようになったのです。
日本の社会も偶像で満ちています。まことの神さま以外のものを神とすることは偶像礼拝です。姓名判断も、占いも偶像礼拝です。お金が第一という生き方は、お金を神さまにしているのです。自分が第一というのは、自分を神としているのです。これも偶像礼拝です。偶像は、本当の意味で私たちを支えてくれません。
2.生けるまことの神
宝石などの、本物と偽物を見分ける目を養うには、本物をよく見て触れることが大事だそうです。本物の素晴らしさを知ると、偽物がすぐわかるのです。では、生けるまことの神さまは、どのようなお方でしょうか。
@背負ってくださる神
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」(イザヤ46:3〜4 新改訳聖書)。生けるまことの神さまは、最後まで私たちを支えてくださるお方です。
A死を打ち破ってくださった神
主イエスは、死を打ち破ってよみがえられました。そして、神の国を完成するために再びおいでくださいます。そのとき、私たちも完成した神の国に入れていただくことができるのです。ですから私たちは、どこまでも希望を持って生きることができるのです。
3.仕える
私たちは、喜びをもって、生けるまことの神さまに仕えます。
@礼拝をささげることを通して、神さまに仕えます。礼拝こそ、何よりも大切な神さまに仕える姿です。
A与えられた賜物を用いて、教会で、家庭で、職場で、学校で、神さまの栄光を表わすために、それぞれの務めを果たします。



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2019年09月08日

「主にならう者」

テサロニケ第一1:6〜8 島津吉成師

 テサロニケ教会は、マケドニヤとアカヤ地方の模範的な教会となりました。テサロニケ教会から発せられる主の言葉が、この地方一帯に響き渡っているというのです。テサロニケ教会がそのような教会になったのは、多くの患難の中で、その患難に負けないで、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、そして、福音を伝えたパウロたちと主イエスにならう者となったからでした。そこで今朝は、「わたしたちと主とにならう者となり」というみ言葉に心を向けたいと思います。
1.憧れ
尊敬する人、憧れている人、大好きだっていう人、いますか?私たちは、誰かに憧れていると、その人のまねをしたくなって、だんだんとその人に似て来るということがあると思います。パウロは、イエスさまに憧れていたと思います。イエスさまのようになりたいと思っていたと思います。そのパウロがテサロニケに行ってイエスさまのことを伝えたのです。テサロニケの人たちは、イエスさまにならおうとしているパウロの生き方にならおうとしました。さらに、パウロがならおうとしているイエスさまにならおうとしたのです。
2.イエスさまって、どんなお方
パウロが憧れ、大好きなイエスさまってどんなお方でしょうか。コリント人への第一の手紙第13章4〜7節には、こう書かれています。「愛はきわめて忍耐強く、親切です。愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いらいらせず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても、気にしません。決して不正を喜ばず、真理が勝つ時は、いつも喜びます。だれかを愛する人は、どんな犠牲をはらっても、誠実であろうとするでしょう。また、いつもその人を信じ、その人に最善を期待し、いのちがけで、その人を守り抜くでしょう」(リビングバイブル)。イエスさまって、まさにこのようなお方です。
3.私たちの内にいてくださるイエスさま
イエスさまは私たちをこのような愛で愛してくださり、ご自分の命を投げ出して、私たちを救ってくださいました。そして、イエスさまは私たちの心の中にいてくださるのです。ですから、私たちもイエスさまにならって、こんな生き方を少しずつでもしていくことができるのです。
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2019年09月01日

「驚く心から生まれる歌」

マタイ21:1〜17 島津吉成師

1.エルサレム入城
主イエスは王なるお方です。そのことが最初に示されたのは、主イエスがお生まれになったときでした。東の博士が、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言って訪ねて来たのです。
次に王としてのお姿がはっきり表されたのは、エルサレムに入城されたときでした。主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。人々は、「ダビデの子に、ホサナ」と叫んで迎えました。「ホサナ」とは「救ってください」という意味です。人々は、主イエスがローマの権力を打倒して解放してくださる王だと期待して歓声をあげたのです。しかし主イエスは軍馬ではなく、ろばに乗って入城されました。それは、柔和な王、謙遜な王、本当の平和をもたらす王として来られたのだということを示していました。
2.真の王として
主イエスはエルサレムに入城されると、まず宮に行かれました。そして、宮の庭で暴利をむさぼる商売をしていた人たちを追い出し、「わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである」と言われました。宮を本来の姿に戻そうとされたのです。
さらに、主イエスは盲人や体の不自由な人たちを癒されました。主イエスは様々な束縛から人々を解放してくださったのです。
3.驚く心から生まれる歌
目が見えない人の目が見えるようになり、足が不自由な人の足が癒され、立ち上がり、喜び踊る光景を見た子どもたちは、大声で歌い出しました。「ダビデの子にホサナ」。
「イエスがなされた不思議なわざ」と言われてる「不思議なわざ」という言葉は、「驚き」という言葉だそうです。祭司長や律法学者たちは、主イエスが盲人たちを癒してくださったみわざを見ても、驚かなかったのです。それどころか、腹を立て、子どもたちを黙らせるように、主イエスに文句を言ったのです。しかし、同じ光景を見た子どもたちは、驚き、そして主をほめたたえて歌ったのです。この違いは、どこから来るのでしょうか。このときの子どもたちのような、「驚く」感性を持ち続けていたいものです。
主イエスはすべてを治める王としての力をお持ちでしたが、謙遜な王として、人となって来てくださいました。醜い汚れた罪の中から私たちを救ってくださるために、降りて来てくださり、その中から私たちを救ってくださったのです。この大きな愛に驚き、私たちもまた、主を讃えて歌うのです。
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2019年08月25日

「喜びをもって御言を受けいれ」

テサロニケ第一1:6 島津 吉成師

1.多くの患難の中で
パウロがテサロニケに行って伝道したときのことが、使徒行伝17章に書かれています。パウロはテサロニケで福音を伝え、信じて救われる人たちが起こされましたが、それと共に、ユダヤ人からの激しい迫害が起こりました。そのために、パウロたちはテサロニケに留まることができず、夜の間に、ベレヤという町に脱出しなければならなくなりました。
しかし、テサロニケで信者になった人たちは、迫害に負けることなく、その地で礼拝をささげ、伝道しました。こうして、さらにキリスト者になる人たちが起こされていったのです。多くの患難の中で、その患難に負けて、しり込みしてしまったら、そこに教会は誕生しませんでした。私たちも、様々な試練や苦難の中を通ることがありますが、そこで、なお、信仰をもって一歩踏み出していくときに、神さまの御業が起きるのです。
2.喜びをもって御言を受けいれ
パウロがテサロニケで伝えた福音の内容が、使徒行伝17章3節に記されています。「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした」。ここには、十字架と復活、そして主イエスこそ、キリスト(救い主)との、福音の中心的なことが記されています。この福音を聞いたとき、人々は、多くの患難の中で、喜びをもってこのみ言葉を受け入れたのです。こうして、テサロニケ教会が誕生したのです。
十字架による罪の赦しによって、私たちは過去の捕らわれから解放されます。そして、復活の希望によって、私たちは明るい未来へと歩み出す力が与えられます。さらに、主イエスが救い主として、いつも共にいて支えてくださるので、私たちは勇気をもって進んでいくことができるのです。
「受けいれる」と訳されている言葉には、「(客を)迎える。歓迎する」という意味があります。テサロニケ教会の人たちは、パウロが伝えた福音を、お客さんを歓迎して迎えるように、喜びをもって受け入れたのです。
使徒行伝17章には、「貴婦人たち」が信仰にはいったと書かれています。ある人が、貴婦人、つまり上流階級の人たちは、社会の移り変わりの影響を受けやすい。それで、確かなものにあこがれていたのではないかと想像しています。どんなときにも私たちを支えてくださる主イエスを、私たちも喜びをもって受け入れ、このお方と共に歩んで行きましょう。
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2019年08月18日

「力と聖霊と強い確信」

テサロニケ第一1:5 島津吉成師

1.聖霊が力をもって働く
パウロはテサロニケの人々に福音を伝えました。そのときのことを彼は、「それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによった」と語っています。ここで、「言葉だけによらず」とは、「言葉だけでは足りないので」という意味ではありません。ローマ1章16節では、こう言われています。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」
福音は、「救いを得させる神の力です」。福音の言葉が伝えられるとき、言葉と共に聖霊が力をもって働かれ、そこに救いの出来事を起こしてくださるのです。聖霊は、神の愛に気づかせてくださいます。また、自分の罪に気づきかせてくださいます。そして、主イエスの十字架が私のためであったということを悟らせてくださいます。こうして、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられている喜びに生きる者へと変えてくださるのです。これが、聖霊の力です。
これは、私たちが日々、聖書を読むときにも起きることです。聖書の言葉と共に聖霊は働いてくださり、そこに書かれている言葉が単なる言葉ではなく、私たちを生かす力となっていくのです。
2.強い確信
パウロは、福音はすべての人を救う神の力だという確信をもって、テサロニケの人々に福音を伝えました。
パウロは、教会を激しく迫害した人でした。しかし、彼はよみがえられた主イエスに出会い、彼の人生は180度、変えられたのです。ですから、「福音はどんな人をも救うことができる」、それが彼の体験でしたし、彼の確信でした。この確信をもって、彼は福音を伝えたのです。
私たちも、この確信を持ちたいと思います。「あの人は難しい」とあきらめていませんか。神さまは、ひとりの人が滅びるのも望んでおられません。すべての人が救われるのを願っておられるのです。福音は、この人をも救う力があるという確信をもって、福音を証ししていきましょう。
パウロは続けて、「わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである」と書いています。その内容については第2章に書かれていますが、つまり言葉と生活が分離していなかった、ということです。聖人君子になれということではありません。欠けのある者を、主は恵みを注いで、用いてくださるのです。
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2019年08月11日

「愛され、選ばれている恵み」

テサロニケ第一1:4 島津吉成師

1.神に愛されている兄弟たちよ
パウロはテサロニケ教会の人たちに、「神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている」と呼びかけています。
キリスト教を一言でいうならば、「神さまは私たちを愛してくださっている」ということに尽きると思います。聖書は言います。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Tヨハネ4:10)。神さまの愛は無条件の愛です。また神さまの愛は、私たちを罪から救うために、御子をあがないの供え物としてつかわしてくださるほどの大きな愛です。神さまに逆らい、神さまに背を向けている者をも愛し、大きな愛を持って包んでくださるのです。
先のみ言葉は、こう続いています。「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである」(Tヨハネ4:11)。私たちが神さまの愛に包まれるとき、私たちも互いに愛し合う者へと変えられます。こうして、神の国(愛と平和と喜びの国)の拠点となる教会が造られていくのです。
2.神に選ばれている恵み
パウロはテサロニケ教会の人々に対して、「わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている」と言いました。それは、テサロニケ教会の人々が、「多くの患難の中で、聖霊による喜びをもってみ言を受けいれ」(1:6)たからです。自分が選ばれているのか、いないのかと思うことがあるかもしれません。しかし、そのように悩む必要はないのです。あなたが、み言葉を受け入れ、主イエスを救い主と信じたら、そこに、すでに神さまの選びがあったのです。私たちは賢かったから、救われたのではありません。神さまが選んでくださっていたから救われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と言われているとおりです。ですから、私たちはいつも謙虚に神さまに感謝し、仕えるのです。
また、神さまの選びは私たちを支えます。私たちは失敗することがあります。つまずくこともあります。しかし、いったん握りしめてくださった神さまの手は、私たちを放すことはないのです。ですから、私たちは信仰生活を、喜びをもって全うしていけるのです。
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2019年08月04日

「望みの忍耐」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

テサロニケ教会は、「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という3つの柱がしっかりと立っている教会でした。先週は「愛の労苦」ということを学びましたので、今朝は「望みの忍耐」について学びます。
1.主イエス・キリストに対する望み
2節には「わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐」と書かれています。新改訳聖書では、「私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」と訳されていました。
まず、「主イエス・キリストに対する望み」ということですが、1章10節に「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」と書かれています。主イエスは天に帰られましたが、再び来てくださるというのです。そのとき、死者はよみがえり、正しいさばきが行われ、愛と平和に満ち溢れた神の国が完成します。ここに、私たちの希望があるのです。
私たちは、せっかく努力してきたのに無駄に終わってしまうのか、ということに直面することがあります。がっかりすることがあります。でも、神さまは途中で投げ出すことはなさらないのです。必ず、完成へと導いてくださるのです。その神さまが、今も、私たちの中に働いてくださっているのです。ここに、私たちの希望があります。
2.希望に支えられた忍耐
この希望を持つとき、私たちは忍耐して、今、ゆだねられている務めに励むことができます。聖書が「忍耐」というとき、それは、ただじっと我慢しているということではありません。聖書がいう忍耐は、「木の根の力」に譬えられます。硬い岩に、木の根はジリジリと食い込んでいき、やがてしっかりと根を張っていきます。そのように、神さまは必ず完成させてくださるという希望を持って、今の務めに励むのです。
「人事を尽くして、天命を待つ」とよく言われます。しかし、キリスト者は、こう言うのです。「天命を信じて、人事を尽くす」。神さまは必ず完成してくださる、そのことを信じて自分の果たすべき務めに力を注ぐのです。
ゼルバベルに語られた主は、私たちにも語っておられます。「主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。」(ハガイ2:4)
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2019年07月28日

「愛の労苦」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

テサロニケ教会は誕生して間もない教会でしたが、迫害の中にあるにもかかわらず、マケドニヤとアカヤ地方で模範的な教会となりました。それは、信仰と希望と愛という3つの柱がしっかりと立っている教会だったからです。先週は「信仰の働き」ということを学びましたので、今朝は「愛の労苦」ということを学びましょう。
1.愛とは
愛の賛歌といわれる第一コリント13章では、真っ先に「愛は寛容であり、愛は情け深い」と言われています。
@「寛容」と訳されている「マクロスメオー」は、「マクロ」(大きい、時間や距離が長い)と、「スメオー」(怒り)という二つの言葉からできています。怒りを爆発させるのに時間がかかる、怒りから長い距離を置く、というのがもともとの意味で、そこから「広い心、寛容、忍耐強い心」という意味になりました。愛は広い心を持って人を受け入れ、包んでいくのです。
A愛は「忍耐強い」のです。すぐに結果が出なくても、支え続け、待ち続けます。
B愛は「情け深い(親切)」。誰かが助けを必要としているときに、進んで助けます。「愛とは特別な、英雄的なことをすることではなく、あたり前のことをやさしさをもってすることである。」(「共同体‐ゆるしと祭りの場」ジャン・バニエ著)と言われています。
2.愛の労苦に生きたテサロニケ教会
テサロニケ教会には、ユダヤ人もいればギリシャ人もいました。また貴婦人もいれば一般の人たちもいました。このような人たちが、互いに愛し合い、寛容、忍耐、親切に生きる教会をつくっていったのです。
さらに、テサロニケ教会は、極度の貧しさにもかかわらず、喜びをもって、惜しみなく、他の教会のために献金をし、パウロの伝道を助けました(Uコリント8:1〜2)。このようにして、彼らは愛の労苦に生きたのです。
3.愛の労苦に生きるために
 @主イエスが、どんなに私のことを愛してくださっているかを、ますます深く受け止め続けること。主イエスの愛が、私たちを変えてくださいます。
 A一人で生きてきたのではなく、どれだけ多くの人たちに助けられてきたのかということを覚えること。
 B神さまに祈ること。自分の力で愛に生きることはできません。でも、神さまは私たちにその力を与えてくださいます(ピリピ4:19)。
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2019年07月21日

「信仰の働き」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

パウロはテサロニケ教会のために祈るとき、「いつも神に感謝」して祈っていると書いています。それは、テサロニケ教会の人たちが、信仰の働きと、愛の労苦と、望みの忍耐に生きているからでした。ここに、信仰、希望、愛という3つの柱が出てきます。柱がしっかりしていたら、その建物は大丈夫です。私たちの信仰生活にとって、この3つの柱がしっかりと立っているということが大切です。
今朝は、まず「信仰の働き」ということを学びましょう。
1.信仰の働きとは
私たちが救われるのは、私たちが良い行いをしたからということではなく、ただ、主イエス・キリストを信じたからです。決して、良い行い(働き)をしたからではありません。しかし、神さまの恵みによって救われた者は、神さまを信じる者としての生き方をするようになっていきます。それが「信仰の働き」です。ダビデがゴリアテと戦ったとき、「これは主の戦いだ」という信仰に立って戦い、勝利することができました。ダビデは、全能の神さまを信じるという信仰を働かせて戦ったのです。
2.信仰の薄い者たちよ
イエスさまは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、思いわずらっている人々を見て、「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30)と言って嘆かれました。当時の人々にとって、食べる物、飲む物、着る物というのは、切実な問題でした。ですから、思いわずらうのです。私たちにとっても、それぞれ、切実な問題を抱えているということがあります。だからこそ、思いわずらうわけです。イエスさまは、そこでこそ、信仰を働かせなさい、と言われるのです。
3.信仰を働かせるために
では、信仰を働かせるために、どんなことが大事なのでしょうか。
@空の鳥を養い、野の花を美しく装ってくださる天の父なる神さまが、私たちのことを養っていてくださるという信仰に立ちましょう。
A神の国と神の義とを求めましょう。神さまのみ旨に反していることをしていたら、信仰を働かせることはできません。神さまのみ旨と心を一つにしようとしている人に、神さまは力をあらわしてくださいます。
B明日を心配するのではなく、今日、一日を大切にして、そこに信仰を働かせて歩んで行きましょう。神さまの力に支えられて、「心を強くし、落ち着いて、朗らかに」、一日一日を歩んで行きましょう。
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2019年07月14日

「恵みと平安」

テサロニケ第一1:1 島津吉成師

1.テサロニケ教会
今朝の礼拝から、テサロニケ人への第一の手紙を読んで、そこから神さまの語りかけを聞きつつ礼拝をささげていきたいと思います。
パウロは、トロアスで「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(使徒16:9)との幻を見て、マケドニヤに渡ります。そしてまず、ピリピで伝道しました。その次に行ったのがテサロニケでした。ここでの伝道の様子については、使徒行伝17章に書かれています。救われる人も起きたのですが、激しい迫害も起きました。そのためパウロたちはテサロニケにいることができなくなり、次の町に行くことになります。でも、テサロニケ教会のことが心配でしたので、アテネからテモテをテサロニケに遣わします(Tテサロニケ2:2)。パウロは伝道旅行を進めコリントにいたとき(使徒18:5)、テモテが戻ってきて、テサロニケ教会の人たちが迫害に負けず、信仰と愛に励んでいるとの報告を受けます(Tテサロニケ3:6)。パウロはその報告を聞いて喜び、またテサロニケ教会が抱えている課題もあることを聞いたので、それについての回答も書き送るために、この手紙が書かれました。
2.父なる神とキリストの中にある教会
パウロは、「父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ」と呼び掛けています。「とにある」とは、直訳すると「中にある」という意味です。教会は、同好会ではありません。父なる神が主イエスのもとに私たちを呼び集めてくださり、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、神の子としてくださり、神さまを「アバ父よ」と呼ぶことができるようにしてくださいました。こうして、父なる神と主イエスが握りしめていてくださる、それが教会です。だから、迫害の中でもテサロニケ教会は負けることがなかったのです。
3.恵みと平安
恵みとは、受けるに値しない者に与えられる神さまからのプレゼントです。この恵みが見えなくなると、不平や不満がわいてきます。受けるに値しない者をあえて選び、握りしめていてくださるという恵みを、はっきりと自覚していくということが大事なことです。
十字架の恵みによって私たちは罪を赦され、平安が与えられます。父なる神さまをまっすぐに見ることができるようにされるのです。赦された者は、赦す者とされていきます。こうして平和がつくられていくのです。

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