2018年09月02日

「日ごとの食物を」

マタイ6:9〜11 島津吉成師
 主の祈りは、前半の3つが神さまとの関係についての祈りで、後半の3つは人の生活に関する祈りです。今朝から、後半の人の生活に関する祈りの部分に入ります。その最初に祈られているのが、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」という祈りです。
1.日ごとの食物を
神さまが関心を持っていてくださるのは、私たちの心の問題だけではありません。神さまは、私たちの体のことも、そして、生活のすべてのことについて関心を持っていてくださるのです。当時の人々は、貧しい人々が多かったと思います。ですから、きょう、食べるパンがある、ということは切実な問題でした。そこでイエスさまは、「日ごとの食物を、きょうもお与えください」という祈りを、教えてくださったのです。
宗教改革者ルターは、「日ごとの食物」とは、私たちの生活になくてはならないすべてのものが含まれていると言って、次のようなことをあげています。「食物と飲み物、着物とはきもの、家、お金、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、良い政府、平和、良い友だち」。神さまは私たちが必要としているものをご存知です。ですから、その必要のために祈りましょう。
2.神さまが支えてくださっている
私たちは、自分で働いて、自分で稼いで、自分の生活を成り立たせていると思いがちです。学校でも、自分の力で頑張って、良い成績を取っていると思いがちです。でも、大事なことは、仕事を与えてくださるのも、頑張る力を与えてくださるのも、神さまです。仕事を与えてくださる神さまに、また、頑張る力を与えてくださる神さまに、感謝しましょう。
また、仕事がうまくいかないときもあります。頑張る力が湧いてこないときもあります。そのときこそ、祈りましょう。「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは、時にかなって、彼らに食物を与えられます」(詩篇145:14〜15 新改訳聖書)。倒れるときも、かがんでしまうときも、神さまご自身が共にいて支えてくださり、必要な力を与えてくださいます。
3.神の口から出る一つ一つの言で生きる
悪魔がイエスさまを誘惑して、「石がパンになるように命じてごらん」と言ってきたとき、イエスさまは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4:4)。真の食物であるみ言葉を、日々いただきましょう。
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2018年08月26日

「ヨナをも愛しぬかれた神さま」

ヨナ2:1〜9 島津禮子師
1.備えをなさる神さま
神さまは、ヨナをどのように取り扱われたのでしょうか。海に投げこまれたヨナのために「主は大いなる魚を備えて」(1:17)と記されています。さらに、「とうごまを備えて」(4:6)、「夜明けに虫を備えて」(4:7)、「東風を備えて」(4:8)とあります。これらは、神さまが備えられたということです。「備える」とは、「すでに準備しておく」という意味があるそうです。神さまは、ヨナの行く先々に、必要なものを備えて取り扱ってくださいました。それは、良いものばかりではありませんでした。辛いこともありました。けれども、そこには恵みの助けが備えられていたのです。
ニネベではなく、反対の方向に行こうとしたヨナに、神さまは、大きな魚を備えて、彼が、その中で悔い改めへと導かれるようにしてくださいました。また、ニネベが滅ぼされないことを怒っているヨナに、1本のとうごまと虫を備えて、神さまが、一人の人が滅びるのも望まれず、一人ひとりをどんなに愛しておられるのかを教えてくださいました。神さまは、ヨナが神さまのみこころを本当にわかる者とするために、このところを通されたのです。失敗して、もう駄目だと思うときにも、神さまは「お前は駄目だ」と捨ててしまわれるお方ではないのです。忍耐深く、恵みを備えて、神さまのふところに抱えてくださるのです。
2.嘆きから賛美へ
2章には、魚の腹の中でのヨナの祈りが記されています。彼は、「悩みの中から主に呼ばわり」(2)ました。3〜5節には、自分が滅んでいくという絶望状態のことが言われています。けれども、その絶望状態から「あなたはわが命を穴から救い上げられた」(6)と言って感謝し、賛美の言葉で終わっているのです。すると、主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させました。神さまを賛美するとき、状況は変えられるのです。物事が変わるのです。
3.イエス・キリストのしるしとしてのヨナ
ニネベの人々は、ヨナの宣教によって悔い改めました。そのヨナにまさる者としてイエスさまが来てくださったのです(ルカ11:29〜30)。そして、ヨナが魚の腹の中にいたということが、イエス・キリストの十字架と復活のしるしとなったのでした(マタイ12:39)。神さまは、ヨナを愛して、愛して、愛し抜かれました。この神さまが、私たちのためにイエスさまをくださいました。私たちを愛し抜いてくださったのです。それがイエスさまの十字架と復活です。このご愛を心から感謝しましょう。

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2018年08月19日

「みこころが地にも」

マタイ6:9〜10 島津吉成師
 主の祈りの3番目の祈りは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。
1.みこころが行われますように
「みこころ」とは、「神さまの意志」という意味です。「父なる神さま、あなたの意志が天で行われるように、地にも行われますように」というのが、この祈りです。この祈りを祈ることに、不安を感じる方がおられるかもしれません。自分の意志を捨てて、神さまの意志を選ぶと、自分はこれからどうなってしまうのか、心配になってしまうかもしれません。
ここで大事なことは、神さまはどのようなお方か、ということです。私たちの神さまは、私たちを愛し、私たちの最善を願っていてくださるお方です。そのお方を信頼する、ここにこの祈りの大切なポイントがあります。主イエスも、父なる神さまを信頼して、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈られ、父なる神さまのご意志に従われました。神さまの意志に従うとき、そこに愛と平和の御国(神の国)が造られていくのです。
2.勇士たちよ
私たちの信仰生活が、日曜日とウイークデーとに分かれてしまうというのは、健全ではありません。私たちの家庭生活、職場での生活、学校での生活の中に、神さまの意志が成っていくことを求めていくということが大切です。
詩篇103篇20節には、こう歌われています。「主の使いたちよ、そのみ言葉を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ」。この言葉は、ただ叱咤激励している言葉ではありません。この前には、こう記されています。「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ」(2)。「あなたは若返って、わしのように新たになる」(5)。神さまは、豊かな恵みを注いでくださっています。そして、日々、新たな力を与えてくださっているのです。「だから、あなたは神さまのみこころを行うことができる」と語っているのです。
3.みこころを知る
AとB、どちらが神さまのみこころなのだろうかと迷う時があります。聖書の全体的な教えに、どちらが適っているかを考えてみましょう。また、どちらを選んだら、愛と自由と平安を感じるでしょうか。心の深いところで、愛と自由と平安を感じる道が、神さまのみこころの道と言えるでしょう。
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2018年08月12日

「御国がきますように」

マタイ6:9〜10 島津吉成師
 主の祈りの2番目の祈りが、「御国がきますように」です。
1.御国とは
「御国」とは、「神の支配」ということです。神さまが支配しておられるところ、そこが神の国です。この神の国は、主イエスがおいでくださったことによって、すでに始まっています(ルカ11:20)。主イエスは、十字架と復活によって悪魔に打ち勝ってくださいました。ですから、主イエスを信じるとき、神の国はその人の中に始まるのです。
2.私の内に
「御国がきますように」との祈りは、まず、「私に内に御国がきますように」との祈りから始まります。主イエスは言われました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。罪を悔い改め、主イエスを信じるとき、その人の中に神の国は始まります。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)という恵みの中に入れていただけるのです。
3.御国の拡大
神の国はからし種に譬えられるように、はじめは小さくても大きく成長していきます。ですから「御国がきますように」との祈りは、「御国が広がっていきますように」との祈りになります。
ところが悪魔は、不信仰の種や、ねたみの種、争いの種などを蒔いて、御国が広がるのを阻止しようとします。ですから、私たちは悪魔の策略に引っかからないようにしなければなりません(エペソ6:11)。悪魔の策略は、「あの人が悪い」と思わせ、人と人との間を仲たがいさせることです。本当の敵は人ではなく、その背後で働いている悪魔です。この悪魔の働きに対抗する最大の武器は、聖書のみ言葉と祈りです(エペソ6:17、18)。祈りつつ、み言葉を通して、福音を伝えましょう。そのとき、必ず、御国は広がっていくのです。
4.御国の完成
神の国の完成は、主イエスが再びおいでくださるときです。そのときのことがヨハネ黙示録21章に記されています。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」。今はまだ、悲しみや痛みがあります。しかし、主イエスは再びおいでくださり、神の国を完成してくださるのです。「御国がきますように」との祈りは、「主イエスよ、早く来て、御国を完成してください」との祈りです。
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2018年08月05日

「御名があがめられますように」

マタイ6:9 島津吉成師
 主の祈りは、前半の3つが神さまに関する祈りで、後半の3つは人の生活に関する祈りです。今朝は、主の祈りの最初の祈りについて学びます。
1.御名が
「御名」とは、神さまのお名前という意味です。名前はその人自身を表します。ですから、「御名が」と言われているのは、「天にいます私たちの父なる神さまが」という意味になります。
2.あがめられますように
@「あがめられますように」と訳されている言葉は、そのまま訳すと「聖なるものとされますように」という意味です。神さまが聖であるとは、すべてを超越した、他のものからまったく区別されたお方だということです。父なる神さまは愛と慈しみのお方です。また天におられる神さまは、全能のお方であり、全世界を創造し、すべてを治めておられるお方です。
私たちは、真の神さま以外のものを神さまにしてしまう誘惑があります。それは人間が作った偶像の神だけではありません。お金が一番大事という人は、その人にとってはお金が神さまになってしまいます。自分が自分の人生の主人と思っている人は、自分を神にしてしまっているのです。
そうではなく、真の神を神とし、他のものと区別することが、神を聖とすること、神をあがめるということです。ここに、神さまと私たちの正しい関係がつくられていくのです。
A「このお方をまことの神とし、私たちの主として、あがめ、賛美し、仕えさせてください。そして、全世界で、ますますあなたの御名が聖とされ、あがめられますように」という祈りのが、この祈りです。
パウロはピリピ1章20節でこう言っています。「そこで、わたしが、切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」。彼の望みは、自分の生き方を通して、キリストがあがめられることでした。彼は自分の栄光を求めるのではなく、キリストの栄光があらわされることを求めたのです。主は彼の信仰に応えてくださり、投獄という逆境の中にあって、「むしろ」(1:12)という御業を行ってくださいました。愛なる神、全能の神は、ご自身を聖なるものとしてあらわしてくださるのです。
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2018年07月29日

「われらの父よ」

マタイ6:9 島津吉成師
 主イエスは、誰に、何を、どう祈ったらよいのかを教えてくださいました。それが、主の祈りです。まず、呼びかけの言葉から始まります。ここに私たちの祈りを聞いてくださるお方がどのようなお方なのかということが言い表されています。
1.父よ
主イエスは、ご自分でも祈るときに、「アバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。アバとは、子どもがお父さんを親しみを込めて呼ぶときに使われた言葉だと言われています。主イエスは、子どもがお父さんを呼ぶように、神さまを呼んだら良いのだと言われたのです。
「でも、私は父親に良いイメージを持っていません」という方がおられるかもしれません。そこで大事なことは、自分の父親のイメージを神さまに当てはめるのではないということです。聖書が父についてどう言っているのか、それを知ることが大切です。主イエスが語られた「放蕩息子の父親」は、息子を愛し抜き、赦し、再び立ち直らせてくださいました。主イエスは、私たちの祈りを聞いてくださる父なる神はこのようなお方だと教えてくださったのです。
2.天にいます
「天にいます」とは、「天において、すべてを治めておられる」という意味です。神さまは、天と地のすべてを創造し、すべてを治めておられる全能のお方です。父なる神さまは、私たちを愛し、私たちの小さな祈りにも耳を傾けてくださるお方です。だから、どんなことでも祈ることができるのです。それと共に、神さまは、天にいまし、すべてを治めておられるお方です。ですから、私たちは、このお方を畏れ、敬い、信頼し、従うという心をもって祈ることが大事です。主イエスは、ゲツセマネの園で祈られました。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。ここに、まさに「天にいます父」に向けた祈りの姿があります。
3.われらの
主の祈りは、孤独な祈りではありません。「われらの」と言って、共に神を呼ぶのです。こうして、私たちの信仰は強められます。神の前に、共に頭を垂れるのです。こうして、謙遜な兄弟姉妹の交わりがつくられていきます。ここに、父なる神を中心とした教会が造られていくのです。
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2018年07月22日

「隠れた祈り」

マタイ6:5〜8 島津吉成師
1.隠れた所においでになるあなたの父に
(1)人に見せようとして
主イエスは、「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(5)と言われました。当時の人々は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣としていたそうです。「あの人は敬虔な人だ」と見られたいために、わざわざその時間に合わせて、大通りに出て行って祈るといったことがあったようです。彼らの目は、神さまにではなく人に向いていたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。人に聞かせるための祈りになってしまっていないでしょうか。
(2)隠れた所においでになるあなたの父に
 それに対して主イエスは言われました。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(6)。「自分の部屋などないです」、という方もおられると思います。ここで主イエスがおっしゃりたいことは、「人を意識するのは止めなさい。祈りは父なる神さまに祈るもの。そこに集中しなさい」ということです。台所でも良いのです。通勤電車の中でもいいのです。そこで、父なる神さまに心を向けて祈るのです。すると、そこがあなたの密室となります。そこで捧げる祈りを、父なる神は聞いてくださるのです。
2.信頼して祈る
主イエスは、「くどくどと祈るな」(7)と言われました。これは、長く祈ることを戒められたのではありません。主イエスは、徹夜で祈られたことがあり(ルカ6:12)、ゲツセマネの園では、3度、同じ言葉で祈られました。主イエスは、「ただ言葉を重ねるのではなく、父なる神を信じて、信頼して祈ることが大事だ」と言われたのです。
そこで、さらにこう言われました。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(8)。「それならば、祈らなくてもいいのか」と思われる方がおられるかもしれませんが、それは逆なのです。もし子どもが、父親は知っていてくれるからといって、何も話さないとしたら、その親子関係はおかしいですね。知っていてくださるからこそ、信頼して、大胆に祈ることができるのです。このようにして主イエスは、私たちを祈りへと招いてくださっているのです。
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2018年07月15日

「隠れた施し」

マタイ6:1〜4 島津吉成師
 マタイ6章1〜18節では、新しいテーマに移ります。当時、人々は自分が神さまの前に正しい生活をしている表れとして、@施し、A祈り、B断食をすることが大事なこととされていました。主イエスは、この3つを取り上げて、この3つの本来のあり方について教えてくださいました。まず、施しについて、教えられています。
1.施しをする時には
主イエスは、「施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな」と言われました。人々に、自分がいかにも信心深いように思わせるために、自分がする施しを吹聴するな、と言われたのです。
また主イエスは、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われました。これは、自分の中で、自分自身に、「俺はこんなにすごいことをやっているのだぞ」と語りかけて、自分で自分を誇るようなことをするな、ということです。
2.隠れたことを見ておられる神
主イエスは、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言われました。「父なる神は、誰も気がつかなくても、隠れたところでなされる良きことを、ちゃんと見ていてくださるお方だ」と、主イエスは言われるのです。
私たちは、人の目を気にします。人が自分をどう見ているかが気になります。そして、人からよく評価されたいと思うのです。ですから、自分が良いことをしたら、それを吹聴したくなるのです。また、私たちは、自分で自分のことを見つめる目を持っています。少しでも良いことができれば自慢したくなりますし、ダメな時は、自分で自分を裁いて落ち込んでしまいます。隠れた事を見ていてくださる神がおられるということがわかるとき、人の目や、自分の目から解放されます。そして、人の評価に左右されるのではなく、神の前に、精一杯生きるという生き方ができるようになるのです。
3.豊かに施してくださる神
「神が報いてくださる」と言われています。これは、良いことをしたから与えられるという報酬ではありません。神さまからの恵みのプレゼントです。そして、父なる神からの最大のプレゼントが主イエス・キリストです。父なる神が与えてくださる豊かな恵みの中で、私たちも、施し(慈しみ)に生きることができるのです。
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2018年07月08日

「復讐心の克服」

マタイ5:43〜48 島津吉成師
1.隣り人を愛し、敵を憎め
「隣り人を愛し、敵を憎め」というのが、当時の人々の考え方でした。レビ記19章18節には「あなた自身のようにあなたの隣り人を愛さなければならない」と教えられています。でも、ここには「敵を憎め」とは書かれていません。どうも、これは後から人々が付け加えたのではないかと思われます。でも、これは、当時の人々だけではなく、今も、私たちの中にある常識的な考え方ではないかと思います。
2.敵を愛し、迫害する者のために祈れ
ところが、イエスさま言われるのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と。そして、「天の父なる神さまは、悪い人の上にも良い人の上にも、太陽をのぼらせ、また雨を降らせてくださるではないか」と言われます。愛する者を愛す、これは誰でもすること、イエスさまの弟子たちは、さらに一歩進んで、敵を愛す、この愛に生きるのだと言われるのです。
3.天の父が完全であられるように
そこで、イエスさまは言われます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。天の父なる神さまが、分け隔てなく愛を注いでくださるように、あなたがたもそのような愛に生きる者となりなさい、と言われるのです。でも、欠けだらけの私たちが、どうして完全な者(父なる神さまのように敵をも愛する者)となることができるのでしょうか。
@神さまの愛に完全に浸りきる。父なる神さまが、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽をのぼらせてくださるということを聞くとき、私たちは自分を良い者と思い、自分と難しい関係になっている人を悪い者と重ね合わせて読んでしまいがちです。しかし、「私こそ、悪い者だった。神さまに敵対する者だった。『敵を愛する』とは、そんな私のことを神さまは愛してくださっているということなのだ」ということに気づくとき、私たちは変えられます。この神さまの愛を完全に受け入れ、浸りきるのです。
A敵であった私のことを神さまが愛してくださったということを知るとき、私たちも、神さまの愛をいただいて、敵をも愛する方向へと導かれていきます。それは。挨拶をする、というような小さなところから始まります。また、祈るとき、そこに神さまが働いてくださいます。祈りは相手を変え、何よりも、祈りの中で私たち自身が変えられていくのです。
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2018年07月01日

「復讐心の克服」

マタイ5:38〜42 島津吉成師
1.目には目を
「目には目を、歯には歯を」というのは、旧約聖書の時代から行われていたことでした(レビ24:20)。これは、目をやられたら、目も鼻もやり返したい、というふうになりがちなことに対して、「目をやられたら、反撃は目だけですよ」という教えで、復讐がエスカレートしていくのを防ぐ戒めです。
2.イエスさまの教え
ところが、イエスさまは言われるのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」、「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」、「あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」。
「イエスさま、ちょっと待ってください。そんなことできません。そんなことをしたら、悪い人が好き勝手なことをやってしまって、社会が混乱し、国は滅んでしまうではないですか」と言いたくなりますね。イエスさまは、十字架につけられる前の裁判のとき、イエスさまを平手で打った人に対して、「(わたしが)正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)と言われました。イエスさまは、不正を許すことはありませんでした。
イエスさまがここで教えてくださっていることは、「復讐心を捨てなさい」ということなのです。侮辱されたり嫌なことをされると、その人に復讐したいという思いが湧きます。そして、それは自分の心の中でどんどんエスカレートしていきがちです。復讐心を持ちながら生きるということは、その人自身が一番苦しむことです。イエスさまは、そこから解き放たれる道を示してくださったのです。
3.復讐心の克服
@神さまにゆだねる。神さまが正しい決着をつけてくださる(ローマ12:19)。
A「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」(ローマ12:20)。イエスさまは、ほかの頬を向けることも、上着を与えることも、2マイル行くことも、このことを言っておられるのです。「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになる」からです。
Bイエスさまは、頬を打たれ、着物をはぎ取られ、十字架につけられました。しかし、イエスさまは、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。このイエスさまの愛によって、私たちは救われ、変えられるのです。
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