2019年02月17日

「神に祝福された人」

創世記14:1〜24 島津吉成師
1.ロトが連れ去られる
エラムの王ケダラオメルとその同盟軍と、ソドムの王ベラとその同盟軍との間で戦争が起きました。そして、ケダラオメル軍の方が勝利し、戦利品を奪って行きました。その中に、ソドムに住んでいたロトとその財産も含まれていました。
ロトが選んだソドムの町は肥沃な所でしたが、争いに巻き込まれる危険な場所でした。これは、ソドムに住むべきではないということを知らせる、ロトへの神さまからの警告でもあったと思います。
2.信仰による勝利
ロトが連れ去られたという知らせがアブラハムに届きます。すると、彼はすぐに追跡を始めます。ロトはアブラハムにとって厄介な存在でした。しかし、アブラハムは彼を助けるために全力を注ぐのです。ここに、アブラハムの愛の姿を見ることができます。
アブラハムは、318人を連れて追いかけます。そして、夜襲をかけて敵を追い払いました。こうして、ロトを救い出したのです。相手は正規の軍隊です。人数もずっと多かったことでしょう。その相手に、アブラハムはわずかな人数で勝利することができたのです。ここには、神さまの介入があったと見るべきでしょう。アブラハムは、神さまの力を信じて、この戦いに勝利することができたのです。
3.神に祝福された人
戦いに勝利して帰って来たアブラハムを、サレムの王メルキゼデクが祝福します。彼は。アブラハムを神さまが祝福されるようにと祈るとともに、「願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された、いと高き神があがめられますように」と祈ります。アブラハムは戦いに勝利し、多くの戦利品を携えて帰ってきました。その彼にメルキゼデクは、この勝利は神さまによるのだと告げたのです。
4.神に栄光を帰する人
そこでアブラハムは、すべての戦利品のうちから10分の1をメルキゼデクに、つまり神さまにささげます。またソドムの王が、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」という申し出に対して、「わたしは糸1本でも受けません」と言って断ります。それは、ソドムの王によって自分が富む者となったと言われないためでした。こうしてアブラハムは、神さまに栄光を帰し、神さまに信頼して生きる道を選んだのです。
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2019年02月10日

「神に祝福された人」

創世記14:1〜24 島津吉成師
1.ロトが連れ去られる
エラムの王ケダラオメルとその同盟軍と、ソドムの王ベラとその同盟軍との間で戦争が起きました。そして、ケダラオメル軍の方が勝利し、戦利品を奪って行きました。その中に、ソドムに住んでいたロトとその財産も含まれていました。
ロトが選んだソドムの町は肥沃な所でしたが、争いに巻き込まれる危険な場所でした。これは、ソドムに住むべきではないということを知らせる、ロトへの神さまからの警告でもあったと思います。
2.信仰による勝利
ロトが連れ去られたという知らせがアブラハムに届きます。すると、彼はすぐに追跡を始めます。ロトはアブラハムにとって厄介な存在でした。しかし、アブラハムは彼を助けるために全力を注ぐのです。ここに、アブラハムの愛の姿を見ることができます。
アブラハムは、318人を連れて追いかけます。そして、夜襲をかけて敵を追い払いました。こうして、ロトを救い出したのです。相手は正規の軍隊です。人数もずっと多かったことでしょう。その相手に、アブラハムはわずかな人数で勝利することができたのです。ここには、神さまの介入があったと見るべきでしょう。アブラハムは、神さまの力を信じて、この戦いに勝利することができたのです。
3.神に祝福された人
戦いに勝利して帰って来たアブラハムを、サレムの王メルキゼデクが祝福します。彼は。アブラハムを神さまが祝福されるようにと祈るとともに、「願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された、いと高き神があがめられますように」と祈ります。アブラハムは戦いに勝利し、多くの戦利品を携えて帰ってきました。その彼にメルキゼデクは、この勝利は神さまによるのだと告げたのです。
4.神に栄光を帰する人
そこでアブラハムは、すべての戦利品のうちから10分の1をメルキゼデクに、つまり神さまにささげます。またソドムの王が、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」という申し出に対して、「わたしは糸1本でも受けません」と言って断ります。それは、ソドムの王によって自分が富む者となったと言われないためでした。こうしてアブラハムは、神さまに栄光を帰し、神さまに信頼して生きる道を選んだのです。
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2019年02月03日

「勝利の力」

ヨハネ第一5:1〜5 島津吉成師
1.生き方を支えるもの
私が始めてキリスト教に接したのは、高校生のときでした。クラブの先輩から誘われて、バイブルクラスに出席しました。この時、アメリカから来日した80歳を過ぎた男性が話し始めたのです。パンプスさんという方で、大工をしていたそうです。80歳で仕事を辞めた後、これから何をしたら良いだろうかとお祈りしたとき、まだ世界中にはイエスさまを知らない多くの人たちがいる、この人たちにイエスさまを伝えることが私の仕事だと思わされて日本に来た、とのことでした。私はそれを聞いて、彼の生き方を支えるものは何だろうか、私にないものを持っている、それを知りたい、そう思って、バイブルクラスに続いて出席するようになりました。そして、あるとき語られた、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したらなんの得になろうか」(マルコ8:36)のみ言葉で、信仰に導かれました。
2.救い主、イエスさま
決して態度には出さなくても、自分の内側には人を憎む心がありました。でもイエスさまは、そのような私たちを救うために来てくださいました。そして、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。さらにイエスさまは、3日目によみがえられました。こうして、私たちの罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられる道を開いてくださったのです。
3.勝利の力
このような恵みにあずかった私たちですが、弱さを持った私たちは、時に、神さまの戒めを守ることに、互いに愛することに、後ずさりしたくなる思い、この世の富、世の成功に傾く思いがあることは否めません。
でも、聖書はこのように言っています。「それを自分がするのではない。一緒にいてくださるイエスさまがしてくださるのです」と。同じ神の子同士が愛し合うこと、それは、相手も神さまに愛されているからです。だから、私たちは互いに愛し合うのです。そして、互いに愛し合うとは、お互いのために祈り合うことです。
イエスさまは、弟子たちの足を洗い、病める人、弱い存在の人の側に寄り添って歩んでくださいました。このお方が、私の内にいてくださるのです。このイエスさまを信じる信仰こそが、勝利の力だと聖書は宣言しています(4節)。私たちは、イエスささまを信じる信仰によって勝利する力が与えられているのです。何と感謝なことでしょう。
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2019年01月27日

「目をあげて」

創世記13:1〜18 島津吉成師
1.初めの信仰に戻る
アブラハムは、エジプトに行って大きな失敗をしてしまいました。彼は、再び最初に築いた祭壇のところに戻り、神さまを礼拝しました。初めの信仰に立ち戻ったのです。誰でも、失敗をすることはあります。そこで大事なことは、そこからどう立ち上がるかです。
2.争い
アブラハムと甥のロトには、たくさんの家畜がいました。彼らが住んでいたところでは、両者の家畜を養うための牧草などが十分にはありませんでした。そこで、アブラハムの家畜を飼う牧者とロトの牧者との間に争いが起きてしまいました。牧草や飲み水のことで争いが起きてしまったのでしょう。貧しいときには助け合っていても、豊かになると争いが起きてしまうということがあります。豊かになったときほど、注意が必要です。
3.アブラハムの提案とロトの選択
そこでアブラハムは、ロトに、別れて住むことを提案します。そして、どちらに行くか、それを決める優先権をロトに与えるのです。普通に考えるならば、年長者であるアブラハムが先に決めても良いはずです。しかし、アブラハムはそれをしませんでした。一つの理由として考えられることは、「そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた」(7)とわざわざ書かれていることです。神さまを信じる者が争い事を起こしていては証しになりません。そこで、アブラハムはロトに選択の優先権を与えて、円満に別れる道を選んだのだろうと思います。
そこでロトは、よく潤っている低地を選びます。しかし、その地の人々は、「主に対して、はなはだしい罪びと」(13)でした。彼は、目先の利益を優先して、神さまに喜ばれる所かどうか、ということを考えませんでした。
4.アブラハムへの神の祝福
ロトが低地を選んだので、アブラハムは山地に向かいます。そこは、牧畜に適した場所とは言えません。アブラハムは、そこでの生活に不安を感じていたかもしれません。そのアブラハムに神さまは言われます。「目をあげなさい」。「うつむいているのではなく、信仰の目を神さまの方に向けなさい」と神さまは言われたのです。そして、「この地と多くの子孫をあなたに与える」と約束してくださいました。アブラハムは、そこに祭壇を築きました。彼は、神さまを信じたのです。神さまが与えてくださった地で、神さまを信じて生きる、そこに信仰に生きる者の姿があります。
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2019年01月13日

「主の憐れみ」

創世記12:10〜20 島津吉成師
1.ききん
アブラハムは、神さまから示された地に来ましたが、そこでききんに会いました。信仰生活には、何も問題が起こらないということはありません。アブラハムにききんが訪れたように、私たちの信仰生活にも試練がやって来ることがあります。
そこで、アブラハムはエジプトに避難することにします。しかし、彼がこの決断をするにあたって、今までのように「祭壇を築いた」ということが書かれていません。どうも、彼は、神さまにお祈りをしないで、自分で決めてしまったようです。そのために、彼の心に不安が襲ってきました。それは、妻のサライが美しかったので、夫の自分が殺されて、妻を略奪されるのではないか、ということでした。そこで、彼は妻のサライに、自分の妹だと言ってほしいと頼みます。これは、まったくの「うそ」ではありませんでした。サライは、異母妹(20:12)だったからです。しかし、妻なのですから、やはりこれは自分の身を守るための「うそ」でした。エジプトに着くと、サライは、なんとエジプトの王様に見染められて、王宮に召し入れられてしまいます。そして、アブラハムは王様からたくさんのプレゼントを貰うのです。表面的にはうまくいったようです。しかし、これでよかったのでしょうか。「祝福の基となる」という主の約束は、どうなってしまうのでしょうか。
2.ところで主は
この危機的な時に、神さまが介入されます。「ところで主は!」真っ暗な世界に、突然、光が差し込んだのです。しかし、その介入の仕方は私たちの予想に反するものです。なんと、神さまはエジプトの王様の方を打たれたのです。罰すべきは、アブラハムの方ではなかったでしょうか。なぜ、エジプトの王様の方を打たれたのでしょうか。一つのことは、サライを救うためには、エジプトの王様の方を打つしかなかったということがあります。でも、もう一つ、大事なことがここに込められています。それは、神さまは憐れみのお方だということです。考えてみてください。私たちは罪人です。私たちが打たれるべき者でした。しかし、父なる神さまは、御子イエスさまを打たれたのです。そして、私たちを救ってくださったのです。
このとき、アブラハムの心境はどんなだったでしょうか。きっと、自らの不信仰を恥じたことと思います。ですから、彼は、初めに築いた祭壇の所に戻って祈りました(13:4)。初心に立ち返ったのです。
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2019年01月06日

「出発」

創世記12:1〜9 島津吉成師
 神さまは、アブラハムを召し、ここから新しい時代を始めてくださいました。
1.召命
アブラハムはこのとき、75歳という高齢でした。また彼らには子どもがいませんでした。人間的な計算では、「祝福の基」となるには、とてもふさわしい人物とは思えません。しかし、神さまは彼を召されたのです。神さまは人間的な計算を超えたことをしてくださるのです。
神さまは、まず、アブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラハムが住んでいた所は偶像礼拝の盛んな所でした。神さまは、神さまに喜ばれないものから離れなさい、と言われたのです。
2.約束
旅立つに当たって、神さまはアブラハムに約束を与えてくださいました。それは、アブラハムを通して多くの子孫が与えられるということ、また、彼を祝福して、良いものを豊かに与えてくださるということ、さらに、祝福の基となる、つまり、彼を通して多くの人々が神さまの祝福にあずかるようになる、ということでした。アブラハムは、神さまの祝福をいただき、その祝福を人々に伝えるために召されたのです。
ここに、私たちの使命もあります。神さまは私たちを祝福してくださいます。それは、私たちが神さまの素晴らしさを体験し、それを多くの人々に伝えるためなのです。
3.出発
アブラハムは、神さまが「行きなさい」と言われた言葉に従って出発しました。そのとき、アブラハムは75歳でした。彼は、「新しいことを始めるのは、もう遅い」とは言いませんでした。神さまは、そのような人を用いてくださいます。
このとき、甥のロトもアブラハムについて行きました。ロトが一緒だったことによって、アブラハムはこれから面倒な問題に直面します。アブラハムはカナンの地に着くと、そこに祭壇を築いて神さまを礼拝しました。信仰生活とは、面倒な問題がなくなることではなく、様々な問題がある中で、そのど真ん中で、神さまに礼拝をささげていくことなのです。そうしていくときに、私たちは、問題の中で神さまの働きを体験し、こうして、神さまの祝福をいただき、神さまの祝福を証ししていく者とされるのです。
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2019年01月01日

「祝福の基」

創世記12:1〜3 島津吉成師
新しい年、信仰の父といわれるアブラハムの生涯を学びつつ、礼拝をささげていきたいと願っています。
1.祝福とは
祝福とは、「愛なる神さまが豊かな恵みを与えてくださる」ということです。神さまは私たちを愛してくださって、「あなたを恵むよ」と宣言してくださっているのです。人は神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる、ここに祝福された人間の本来の姿があるのです。しかし人間は、神さまの愛に背を向け、自分勝手な歩みを始めてしまいました。11章には、バベルの塔のことが書かれています。彼らは「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」(11:4)と言って塔の建設を始めました。これは、「自分こそ神だ」と言う、高慢になった人間の姿です。
このような暗黒の時代に、神さまは一人の人を選ばれました。そして、彼を通して、もう一度、神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる民を造ろうとされたのです。
2.祝福の約束
神さまはアブラハムに言われました。@「わたしはあなたを大いなる国民とする」。神さまは、彼に多くの子孫を与えると約束してくださいました。彼を通してイスラエルの民が生まれました。さらに、キリストを信じる者はアブラハムの子孫だと言われています(ガラテヤ3:29)。A「あなたを祝福し」。神さまはアブラハムに豊かな恵みを与えてくださると約束してくださいました。B「あなたの名を大きくしよう」。アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれるようになります。
 ただし、祝福は、すぐにわかる形で与えられるとは限りません。「どうして?」と思うことの中に、そこでしか知ることのできない宝が隠されているのです。アブラハムも、このような神の祝福を体験し、成熟していくのです。
3.祝福の基
アブラハムが祝福されたのは、彼によってすべての人々が祝福にあずかるためでした。しかし、それは彼が立派だったからということではありません。彼は失敗することもありました。でも、その度に彼は神に立ち返りました。その姿を通して、祝福が人々に伝わっていったのです。
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2018年12月30日

「岩の上に家を」

マタイ7:24〜29 島津吉成師
今年 の初めから山上の説教を学んできましたが、いよいよ、最後の結論の部分となりました。
1.嵐が来る
イエスさまは、ここで、賢い人と愚かな人について語っておられます。賢い人も愚かな人も、同じように家を建てました。これは、それぞれが自分の人生を建て上げていくということを言われているのだと思います。家を建て上げたとき、嵐がやってきました。賢い人にも、愚かな人にも、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹く」と、同じ言葉で嵐が来ることが言われています。これは、人生には、苦難や試練の時が来る、ということを言っているのでしょう。特に、同じ言葉で言われているので、誰にでも平等に訪れる、最大の試練である「死」のことが言われているのだと思います。
嵐が襲ってきたときに、賢い人の家は倒れませんでしたが、愚かな人の家は倒れてしまいました。何もないときには、賢い人と愚かな人の違いはわかりません。しかし、嵐が来たときに、その真価が問われます。嵐が来ても倒れない、そのような人生を建て上げているか、とイエスさまは問うておられるのです。
2.揺るがない土台
では、賢い人と愚かな人の違いは、何だったのでしょうか。それは、イエスさまの言葉を聞いて行う人と行わない人の違いだと、イエスさまは言われました。イエスさまの言葉を聞いて行う人は、自分の人生を岩の上に建てるようなもの、反対に、イエスさまの言葉を聞いても行わない人は、自分の人生を砂の上に建てるようなものだ、と言われるのです。「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:22)と言われているように、み言葉を聞いて、それを実行していくことが大事なのです。
その上で、もう一つの問いがあります。それは、ここでは、私たちの実行力だけが問われているのだろうか、ということです。大事なことは、イエスさまの言葉を、どのような言葉として聞くか、ということが問われているのです。イエスさまは、「権威ある者」として教えられたとあります。それは、救いをもたらす神の言葉として語られたということです。聖書を神の言葉として聞く、これこそが嵐にも揺るがない土台です。そして、神の言葉として聞くときに、聞くだけで終わるはずはないのです。さらに、ルカによる福音書では、「地を深く掘り」(ルカ6:48)と書かれています。み言葉を深く掘りましょう。命の泉はそこから湧いてくるのです。
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2018年12月23日

「きょう、救いがこの家にきた」

ルカ19:1〜10 島津吉成師
今朝は、主イエスのご降誕を祝い、感謝するクリスマスの礼拝です。イエスさまは何のために来てくださったのでしょうか。イエスさまは言われました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
1.ザアカイ
@ザアカイは、取税人のかしらで、お金持ちでした。当時、取税人はローマ帝国の手先ということで、また、取り立てたお金で私腹を肥やしたりしていたので、人々から嫌われていました。
Aザアカイは、「背が低かった」と書かれています。きっと、これが彼のコンプレックスになっていたのだと思います。このコンプレックスをバネにして、彼は人に嫌われても、がむしゃらに頑張って、現在の地位と富とを手に入れたのではないでしょうか。しかし、それらでは、彼の心は満たされませんでした。
Bザアカイは、イエスさまが来られると聞いて、ぜひお目にかかりたい、と思いましたが、道はすでに人でいっぱいで見ることができません。そこで彼は、木に登ってイエスさまを見ようとしました。それほどに、彼はイエスさまとお会いしたかったのです。
2.ザアカイよ、急いで下りてきなさい
@イエスさまは、木に登っているザアカイに、「ザアカイよ」と呼びかけられました。イエスさまは、ザアカイのことを知っていてくださったのです。
Aイエスさまは、「あなたの家に泊まることにしている」と言われました。孤独なザアカイのことを、イエスさまは愛してくださっていたのです。ザアカイは喜んでイエスさまを迎えました。こうして、イエスさまは、彼を尋ね出し、救ってくださったのです。
3.変えられたザアカイ
@ザアカイはイエスさまの愛を知って、劣等感から解放されました。もはや、人と比較して生きる必要はなくなったのです。
Aザアカイは、「財産の半分を貧しい人に施す。不正な取り立てをしていたら、4倍にして返す」と言いました。彼は、「受けるよりは与える方が、さいわいである」という人に変えられたのです。
B「きょう、救いがこの家にきた」と言われているように、ザアカイが変えられたことを通して、家族も救われたのです。
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2018年12月16日

「実によって見わけなさい」

マタイ7:15〜23 島津吉成師
 山上の説教も、いよいよ終わりに近づいてきました。イエスさまは、ここで警告を与えておられます。それは、にせ預言者がいるということです。
1.にせ預言者に警戒せよ
にせ預言者とは、間違ったことを教える人です。私たちがゴール(天国)に行けないように邪魔をする働きです。サタンの働きと言っても良いでしょう。にせ預言者は、羊の衣を着て近づいてくると言われています。いかにもサタンだという姿ではなく、とても優しそうな姿で来るのです。
そこで、「実によって見わけなさい」と言われています。実によって見わけるとは、どういうことでしょう。「父の御旨を行う者だけが天国にはいることができる」と言われていますが、にせ預言者はその逆のことを教えるのです。ですから、実によって見わけるとは、父なる神さまの御旨に添ったことを教えているか、そこからそらすようなことを教えているか、それによって見わけなさい、ということです。にせ預言者は、山上の説教の教えから私たちをそらそうとするのです。
2.にせ預言者の働き
では、にせ預言者の働きとはどんな働きなのでしょうか。
@聖書のみ言葉に対して、疑いや不信の種を蒔く。
A狭い門から入らなくても良い、と勧める。心の貧しい者であることを認め、罪を悲しみ悔い改める、そのような狭い門から入る必要はないと教える。
Bたくさんの人が行く、広い道を行こう、と勧める。
C神さまに頼らなくても、自分の力でできる、とそそのかす。
D失望した時、もう駄目だと思わせる。
E素晴らしいことをしても、それを父なる神さまのみ旨とは違う形で行うように仕向ける。多くの場合、神さまの栄光よりも自分の誉れを求める。
3.良い実を結ぶ良い木
心を貧しくし、罪を悲しみ、悔い改めるとき、父なる神さまは、私たちの罪を赦し、神の子としてくださいます。そして、家畜小屋の飼葉おけの中にまで降りて来てくださったイエスさまは、私たちの心の内にも宿ってくださいます。こうして、私たちを良い実を結ぶ良い木としてくださるのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とイエスさま言われました。イエスさまにつながっていましょう。それは礼拝の場に身を置くということです。良い実はそこから結ばれていきます。
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