2018年06月17日

「父と母を敬え」

出エジプト20:12 島津吉成師
 十戒の5番目に「あなたの父と母を敬え」と教えられています。今日は「父の日」ですが、親と子について聖書の語りかけを聞きましょう。
1.なぜ、父と母を敬うのか
十戒は、最初の4つは神さまとの関係について教えられていて、6番目からは人間関係についてのことが教えられています。その橋渡しをしているのが真ん中にある「父と母を敬え」の教えです。つまり、父と母は子どもたちに神さまのことを教え、子どもたちが神さまの教えに従って生きる者となるように育てる責任が神さまから託されているのです。そこで、神さまの代理人である父と母を敬いなさい、と教えられているのです。
2.育てる
では、親は子供たちをどのように育てたら良いのでしょうか。エペソ6章4節には、こう記されています。「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい」。
(1)おこらせない
 叱るときは叱らなければならないのですが、そのとき、子どもを怒らせるような叱り方をしてはいけない、というのです。どんなとき、子どもは怒るでしょうか。ロイドジョンズという牧師は、こんな点をあげています。
@親が感情的になって子どもを叱るとき。
A親の叱り方が気まぐれで、一貫性がないとき。
B子どもの言うことを聞こうとせず、頭ごなしに叱るとき。
C親が子どもを自分の所有物のように扱い、自分の考えを押し付けるとき。
D処罰が厳しすぎるとき。
E子どもの成長、発達を認めないとき。
(2)主の薫陶と訓戒とによって
 薫陶は、人格的な感化を与えて育てるという面が強く、訓戒は、言葉で教え諭すという面が強いように思います。「人格的な感化」というと、尻込みしてしまいたくなりますが、欠けもあれば、失敗することもある、でもその中で、主を愛して、主に従っていこうという姿勢が大事なのではないでしょうか。
ロイドジョンズは、「この人生で、キリスト者であるということに匹敵するほど素晴らしいことは何もない、ということが子どもたちに伝わるようにしよう」と勧めています。キリスト者として生きることは、素晴らしいんだ、楽しいんだ、ということを子どもたちに手渡していきましょう。
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2018年06月03日

「わがたましいよ、主をほめよ」

詩篇103:1〜5 島津吉成師
 詩篇103篇2節には、「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ」と言われています。この2節を別の翻訳の聖書では、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と訳されています。私たちは、せっかく神さまが与えてくださった恵みを忘れてしまうことが、なんと多いことでしょう。そして、足りないものだけを数えて、不平を言ったり、つぶやいてしまったりしがちです。今朝は、神さまが与えてくださった恵みを数えて、心から主を賛美いたしましょう。
1.すべての不義をゆるし
主が与えてくださる恵みということで、まず言われているのが、「不義のゆるし」です。神さまは、主イエス・キリストの十字架のゆえに、私たちのすべての罪を赦してくださいました。罪が赦されたということは、神さまとの交わりが回復されたということです。私たちは、神さまという確かな土台の上に立つことができるようにしていただいたのです。
2.病をいやし、いのちを墓からあがないいだし
主は、御心であれば病からも私たちを癒してくださいます。また、「墓からあがないいだし」とは、いのちの危険から守ってくださった、ということです。主は癒し主です。この主をほめたたえましょう。
3.良き物をもってあなたを飽き足らせ
主は、「生きながらえるかぎり、良き物をもって飽き足らせ」てくださるお方です。ここで「良き物」と言われているのは、ローマ8章28節で「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と言われている「益」ということと結びつく言葉だと思います。ここで言われている「益」とは、自分にとっての「利益」ということではなく、私たちがキリストに似たものとなっていくために、「益」となるということです。ですから、自分にとってマイナスと見えることの中にも神さまは働いていてくださり、それをも用いて、私たちがキリストに似たものへと造っていってくださるのです。マイナスと見えることも「益」としてくださるのです。このように神さまはすべての中に働いておられるので、私たちの一生は、良き物で満ちているのです。このような恵みを与えてくださる主がおられるので、私たちは「若返って、わしのように新たに」していただいて、歩み続けることができるのです。
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2018年05月27日

「怒りを捨てて」

マタイ5:21〜26 島津吉成師
 主イエスは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイ5:20)と言われました。21節以下には、この「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」の具体的な内容について記されています。
1.殺すな
「殺すな」というのは、モーセの十戒の6番目の戒めです。主イエスはこの戒めを取りあげ、「しかし、わたしはあなたがたに言う」と言われて、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」を示されたのです。
主イエスは、兄弟に対して「怒る者は裁判にかけられ」、「愚か者と言う者は議会に引きわたされ」、「ばか者と言う者は地獄の火に投げ込まれる」と言われます。「ばか者」と訳されている言葉は、「神に捨てられた者」という意味で、その人を呪う言葉だそうです。心の中の怒りが爆発して「愚か者」という言葉となり、ついにはその人を呪うところまで行ってしまうのです。実際に人を殺すという行為に至っていなかったとしても、心の中に怒りをため込み、それが言葉や態度となって表されるとき、それは殺人と同じだと、主イエスは言われるのです。
2.和解の勧め
祭壇に供え物をささげようとするとき、兄弟が自分に対してうらみをいだいていることを思い出したら、まず行ってその兄弟と和解しなさい、と主イエスは言われます。「殺すな」という教えに対して、主イエスは、「和解せよ」言われるのです。これが「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」に生きる者の姿です。
主イエスは、「まず行って」と言われます。相手を変えようとしてもなかなか人を変えることはできません。まず、自分が変わることから和解は始まるのです。
3.早く
主イエスは、「早く仲直りしなさい」と言われます。この地上での生涯はあっというまに過ぎていきます。ですから手遅れにならないうちに、早く仲直りしなさい、と言われているのです。
ここに登場する「裁判官」とは、神さまのことです。神さまの前で、私たちの罪が問われるときが来るのです。しかし、主イエスはその私たちの罪を十字架によって贖ってくださいました。こうして私たちが、神と和解し、隣人と和解して生きる道を開いてくださったのです。
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2018年05月20日

「聖霊により新たにされて」

テトス3:1〜7 島津吉成師
 本日は、弟子たちに聖霊が降った記念の日です。主イエスが天に帰られた後、祈っていた弟子たちに聖霊が注がれました。そのとき、彼らは新しい力をいただいて、主イエスこそ救い主であることを大胆に語りだしたのです。
聖霊は、「別の助け主」(ヨハネ14:16)と言われているように、天に帰られた主イエスに代わって、いつも私たちと共にいて私たちを助けてくださるお方です。
1.洗礼の時の聖霊の働き
「再生の洗い」(5)とは、洗礼のことです。聖霊はここに働いて、その人を新たにしてくださるのです。洗礼は、@十字架にかかって死なれたキリストと共に、古い私が死ぬことです。A死を打ち破ってよみがえられたキリストと共に、新しい私が誕生することです。聖霊は、このことをその人に実現してくださるのです。こうして、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Uコリント5:17)と語られていることが、その人の中に実現するのです。
2.信仰生活の中での聖霊の働き
@キリストの恵みによって義とされ
キリストが私たちの汚れた罪の衣を引き受けてくださいました。そして、キリストの義(真っ白な衣)を私たちに与えてくださいました。これを恵みの交換と言います。こうして、私たちは罪を赦され、神の前に立つことができるようにしてくださったのです。聖霊は、このことを私たちの中に成し遂げ、確かなものとしてつかませてくださるのです。
A永遠のいのちの希望に生きる
キリストは死を打ち破ってよみがえられました。そして、このいのちを私たちに与えてくださるのです。ですから、死はすべての終わりではなくなりました。私たちは永遠のいのちに生かされて、天国への希望を持って生きることができるのです。聖霊は、このことを私たちにつかませてくださるのです。
B聖霊の豊かな注ぎの中で歩むことができる
聖霊は、私たちの上に豊かに注がれています。ギリギリではなく、豊かに、です。聖霊は、聖書のみ言葉と共に働かれます。み言葉を確かなものとして、私たちにつかませてくださるのです。そして、み言葉に従って生きる力を与えてくださるのです。
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2018年05月13日

「母から子へ」

テモテ第二1:3〜7 島津吉成師
 本日は、「母の日」ですね。そこで、祖母ロイスと母ユニケ、そして、子であるテモテについて学びたいと思いました。パウロが第一次伝道旅行でルステラに行って伝道したとき、ロイスとユニケが信仰に導かれたようです(使徒14章)。そして第二次伝道旅行でパウロが再びルステラに行ったとき、そこでテモテに会い、彼を伝道チームのメンバーに招き入れました(使徒16:1)。それ以来、テモテはパウロを支える忠実な伝道者になりました。テモテ第二の手紙が書かれたとき、テモテはエペソ教会の牧師になっていたようです。パウロがこの手紙を書いた目的の一つは、困難な状況の中で伝道しているテモテを励ますことでした。。
1.偽りのない信仰
信仰は、何でも信じればよいということではありません。聖書が伝えている正しい信仰を持つということが、大切です。
@神さまは、全世界を創造され、そして私たち人間をかけがえのない者として造ってくださいました。ですから、どんな人にも、造られた目的、尊い使命があるのです。
A主イエスは、神さまから離れてしまった私たち人間を罪の中から救い出してくださいました。そして、主イエスはどんなときにも私たちと共にいて、私たちを支え、助けてくださいます。
人生には、何のために生まれてきたのだろうかと悩んだり、困難な問題に直面して心が折れそうになってしまうこともあります。「偽りのない信仰」は、そのようなときにその人を支えます。偽りのない信仰こそ、人が本当の意味で幸せな人生を歩む土台です。
2.この信仰が「宿る」ために
信仰が、単なる知識としてではなく、その人の中に「宿る」ということが大切です。宿るために、どのようなことが必要でしょうか。
@テモテは、母ユニケから、幼い時から聖書に親しむように育てられました(Uテモテ3:15)。「幼い時から」というのが大事です。聖書には、人を神さまに喜ばれる人へと造り上げていく力があるのです。
A祈り。パウロは、一人ひとりのために涙を流して祈る人でした(使徒20:19、31)。母ユニケもテモテのために祈ったと思います。母の祈りです。この祈りを通して神さまが働いてくださり、テモテの中に信仰を宿らせてくださったのです。こうしてテモテも、涙を流して人々の救いのために祈る人となったのです(Uテモテ1:4)。
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2018年05月06日

「志は高く」

マタイ5:17〜20 島津吉成師
 主イエスは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなけれな、決して天国に、はいることはできない」と言われました。「パリサイ人の義にまさる義を求める」ということで、本日の説教題は、「志は高く」といたしました。それにしても、「パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と言われると、とてもハードルが高いように感じてしまいます。では、パリサイ人の義にまさる義とは、どういうことでしょうか。
1.パリサイ人の祈りと取税人の祈り
「義」とは、「神さまとの正しい関係」という意味です。では、パリサイ人はどのようにして神さまとの正しい関係を持とうとしたのでしょうか。
ルカ18:9〜14には、パリサイ人の祈りと取税人の祈りが対比されて記されています。ここでパリサイ人は、「わたしは1週に2度断食しており、全収入の10分の1をささげています」と祈っています。パリサイ人は律法をしっかりと守ることによって、神さまとの正しい関係を持とうとしたわけです。しかし、彼の心の中にあったものは、自分を誇る思いと他者を見下げる心でした。
これに対して取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました。そして、主イエスは言われたのです。「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」。取税人は、自分が罪人であると自覚し、目を天に向けることもできず、胸を打ちながら悔い改めの祈りをささげました。神さまは、このような「砕けた悔いた心」(詩51:17)を受け入れてくださるのです。
2.パリサイ人の義にまさる義
パリサイ人は、自分は律法を守っていると思っていましたが、律法を完全に守ることができる人はいません。律法は、自分の罪に気づかせ、そして主イエスの十字架へと導くものなのです。こうして私たちは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ3:22)へと至るのです。私たちは律法の行いによって義とされるのではなく、キリストを信じることによってキリストの義の衣を着せていただくのです。これこそが、パリサイ人の義にまさる義です。こうして私たちは、喜びと感謝をもって心から神を愛し隣人を愛する歩みを始めていくことができるのです。パリサイ人の義は外側を飾るものでした。これに対して、主イエスが与えてくださるのは、内側からの溢れる喜びです。
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2018年04月29日

「律法の成就」

マタイ5:17〜20 島津吉成師
 主イエスは、8つのさいわいな者、そして地の塩、世の光ということを通して、主イエスの弟子たち、すなわちキリスト者がどのような者とされているのか、ということを教えてくださいました。そして21節からは、キリスト者がどのように生きるのか、ということが教えられています。そのことをお話しくださる前に、主イエスは、主イエスの教えが旧約聖書で教えられていたこととどのような関係にあるのか、ということをここで語られました。
1.廃するためではなく、
律法というのは、十戒に代表される戒めのことです。預言者とは、神さまからの言葉を預かって人々に伝えた人のことです。ここで律法と預言者といわれているのは、旧約聖書全体という意味が込められています。「旧約聖書は戒めが書かれていて、新約聖書は主イエスの恵みが記されている。だから、旧約聖書は廃棄されたのだ、主イエスはそのために来てくださったのだ」と思っている方がおられるかもしれませんが、それは誤解です。
2.成就するためにきた
主イエスは、「廃棄するためではなく、成就するためにきた」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。
@そもそも律法は、人間を縛るために与えられたものではなく、人間の幸せのために神さまが与えてくださったものでした。このように生きたら、本当に幸いな人生を送ることができるということが記されたものなのです。
Aところが、人間には、それを守る力がありませんでした。律法に従って生きることができず、逆に律法に反する生き方をするようにさえなってしまったのです。そのために、人間は罪ある者となってしまいました。
Bそのような人間を救うために、主イエスは来てくださいました。そして、律法のすべてを守り、全うしてくださったのです。
C主イエスを信じるとき、主イエスは律法を全うされたご自分の白い衣をその人に着せてくださるのです。こうして私たちは、罪を覆われた者として父なる神さまの前に出ることができ、天国に入れていただくことができるのです。
Dさらに、主イエスを信じる者にいのちを注いでくださり、喜びをもって律法が示す生き方をする者へと導いてくださいます。こうして、「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めを歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」(エゼキエル36:27)との約束を成就してくださるのです。
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2018年04月22日

「世の光」

マタイ5:14〜16 島津吉成師
 主イエスは弟子たちに「あなたがたは、世の光である」と言われました。
1.世の光とは
世の光とは、どんな意味でしょうか。
@光は周りを明るくします。停電で真っ暗なときも、1本のろうそくを灯すだけでもかなり明るくなりますね。主イエスは弟子たちに、「あなたがたは、この暗い世の中を明るくしていく光なのだ」と言われたのです。
A光の源は神さま。私たちが光の源になることはできません。光の源は神さまであり、イエスさまです。ですからちょうど、月が太陽の光を受けて夜空に輝き、夜道を照らすように、私たちは神さまからの光を受けて、その光を届けるのです。
2.隠れることはできない
山の上にある町は、「あそこに町がある」ということがどこから見てもよくわかります。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下において、それを覆ってしまうような人はいません。燭台の上に置いてまわりを照らすようにします。
なぜ、主イエスはこのようなことを言われたのでしょうか。きっとそれは、私たちの中に、キリスト者であるということを隠しておきたいという心理が働くことを見抜いておられたからではないでしょうか。その私たちに主イエスは、「あなたがたはすでに世の光とされているのだ。その光を隠すな。人々は光を求めているのだ。その光を輝かせ」と言っておられるのです。
3.あなたがたの父をあがめるように
主イエスは、「人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言われました。「よいおこないを見て」といわれると、ますますしり込みしてしまいたくなるかもしれません。
@み言葉を信じましょう。主イエスは私たちを救ってくださり、闇から光へと変えてくださいました。そして、「あなたはわたしの恵みをいっぱい受けて、すでに輝いているのだ」と言ってくださっているのです。
A小さなことから始めてみよう。「ありがとう」の一言が、相手に明るい心を届けることができるかもしれません。
B父なる神さまを、そしてイエスさまを証ししましょう。私たちは、欠けがあり、失敗もします。でも、そんな私たちをイエスさまは用いてくださるのです。ですから、「素晴らしいのはイエスさま」と言って、イエスさまを証ししましょう。
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2018年04月15日

「地の塩」

マタイ5:13 島津吉成師
 主イエスは、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」から始まった8つの幸いな人について語られた後、その結論として、「あなたがたは、地の塩である」「世の光である」と言われました。
1.地の塩とは
地の塩とは、どんな意味でしょうか。
@塩には、腐敗を止める働きがあります。生ものなどを塩漬けにして腐敗を防ぎます。そのように、主の弟子には社会の腐敗を防ぐ使命があるのです。
A塩は味付けに用いられます。塩を少し入れると深みが増します。
「あなたがたのことばが、いつも親切で(恵みによるもので)、塩味の効いたものであるようにしなさい」(コロサイ4:6 新改訳2017)と言われています。塩で味付けされた言葉とは、ただ優しい言葉ということではなく、神さまがどんなに恵み深いお方でいてくださるのかということを伝える言葉です。
2.あなたがたは、地の塩である
「私にはとてもそんなことはできない」と思うでしょうか。主イエスはここで、「頑張って地の塩になりなさい」とは言われませんでした。「もうすでに、あなたがたは地の塩である」と言われたのです。ここで大事なことは、8つの幸いのうち、いちばん最初に言われていた「こころの貧しい人」ということだと思います。「心が貧しい」とは、心が空っぽということです。「私は心が空っぽな者です。あなたの恵みなくして何もできません」という人のことです。その人の心に、主イエスがお住みくださいます。そして、その人に力を与えてくださるのです。ですから、その人はすでに地の塩なのです。神さまの恵みを証しする存在なのです。
3.塩のききめがなくなったら
主イエスは、「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味を取りもどせようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」と言われました。とても厳しい言葉です。どうして塩のききめがなくなるのでしょうか。信仰から離れるからです。枝が幹から離れると枯れてしまうように、主イエスから離れてしまうと塩の働きをすることができなくなってしまうのです。
 主イエスはどのような人をも救ってくださり、地の塩としてくださいます。この恵みを感謝し、この恵みを伝えましょう。ここに、地の塩としていただいた者の使命があります。
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2018年04月08日

「義のために迫害されてきた人」

マタイ5:10〜12 島津吉成師
 主イエスは、どんな人が幸いな人なのかということを教えてくださいましたが、いよいよ8番目、最後に言われている幸いな人とは、「義のために迫害されてきた人たち」だと言われます。
1.義のために迫害されてきた人
「義のために迫害されてきた人」とありますが、11節には、「わたしのために」とも言われています。主イエスの弟子となって、主イエスが与えてくださる使命を果たしていくとき、迫害を受け、悪口を言われることは避けられないと言われるのです。主イエスご自身も迫害を受け、十字架につけられました。ペテロやヤコブも殉教しました。キング牧師は暗殺されました。日本でも、戦時中、ある牧師たちは捕らえられ、教会は解散させられ、獄中で亡くなった牧師たちもいます。今でも、信仰を公にできない国々に住むクリスチャンたちがいます。
では、今の私たちはどうでしょうか。表立っての迫害ということはないかもしれません。でも、クリスチャンだと言うと仲間外れにされる。日曜日に教会に行くと言うと馬鹿にされる。洗礼を受けようとすると反対される、などということがあるかもしれません。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」(Uテモテ3:12)と言われている通りです。
2.報いは大きい
主イエスは、迫害を受け、悪口を言われるときは、「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」と言われました。ここで言われている「報い」とは、報酬ということではありません。これだけのことをしたから、これだけのお返しがあるということではないのです。私たちにできることは、本当に小さなことです。それに対して、神さまはびっくりするくらい大きな報いを与えてくださると言われるのです。
@天からの報いがある。神さまは天からちゃんと見ていてくださり、報いてくださいます。私たちは、どうしても人からの報いを期待してしまいます。そこに捕らわれる心から解放されるのです。
A神が味方でいてくださるということを体験することができる(ローマ8:31)。患難や迫害の中でこそ、神さまが味方でいてくださるということを体験することができるのです。
Bやがてのとき、主は天にて、「よくやった。忠実なしもべよ」と言って、栄光の冠を授けてくださいます。
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