2018年11月18日

「人をさばくな」

マタイ7:1〜6 島津吉成師
1.「人をさばくな」とは
イエスさまは、「人をさばくな」と言われましたが、どんなことであってもさばいてはいけない、ということでしょうか。子どもが間違っていることをしたとき、親は、「それは間違っている」と言わなくてはなりません。イエスさまは、そのようなことも禁じておられるのでしょうか。
イエスさまは、別のところで「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」(ヨハネ7:24)と言われました。私たちは、うわべだけを見て、人をさばいてしまうことがあります。そのとき、私たちは、自分には甘く、人には厳しくなりがちです。また、感情的になって、早急な判断をしてしまうこともあります。イエスさまは、そのような形でなされるさばきを戒めておられるのです。
2.梁を取りのけなさい
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」とイエスさまは言われます。イエスさまというお方は、ユーモアのあるお方だなあと思います。「目の中に梁がある」という絵を想像してみてください。ユーモラスですよね。互いに裁き合って感情が高ぶっているとき、必要なのはユーモアのセンスです。ユーモアは、心に落ち着きとゆとりを与えます。
ここで「梁」と言われているのは、「罪」のことです。自分の中に罪があるということに気づきなさい、とイエスさまは言われるのです。「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と言われていますが、罪を取りのけてくださるのは、イエスさまです。イエスさまの十字架の恵みが自分のためであったとわかるとき、目の中の梁が取りのけられるのです。そのとき、「はっきり見える」ようになります。神さまの愛がはっきり見えるようになります。また、自分が感情的にさばいていた人に対しても、神さまがどんなに深い愛をもって愛しておられるのかが、はっきり見えるようになります。そのとき、その人への接し方が変わっていきます。間違いを指摘するときも、その人のことを思って伝えるようになります。そのような言葉は、相手に届くのです。
3.豚に真珠
「聖なるもの」「真珠」とは、十字架の恵みのことです。それを伝えても、足で踏みつけ、かみついてくる人がいるというのです。そのような人に対しては、言葉で伝えようとしても伝わりません。背後で祈り、後ろ姿で証ししていくことが大切です。

posted by グロリアスチャペル at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年11月11日

「労苦はむだになることはない」

コリント第一15:50〜58 島津吉成師
今朝の礼拝は、召天者記念礼拝です。すでに天に帰られた兄弟姉妹を覚えつつ礼拝をおささげいたします。
1.死への勝利
 私たちにとって、最大の敵は「死」です。主イエスの十字架と復活は、この死に対する勝利でした。
@キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえられました(20)。初穂が実るということは、それに続いて豊かな収穫があるということです。キリストが初穂としてよみがえられたということは、後に続く私たちもよみがえるということが約束されているのです。
A「終わりのラッパの響きと共に」(51)とは、主イエスが再びおいでくださる再臨の時ということです。そのとき、死人は朽ちない者によみがえらされ、変えられるのです。私たちの肉体は、やがて朽ちていきます。しかし、やがてのとき、私たちは朽ちない体へと変えられるのです。ここに、私たちの希望があります。主イエスの十字架と復活によって、「死は勝利にのまれてしまった」のです。
2.むだになることはない
伝道の書は、こういう言葉で始まります。「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人がするすべての労苦は、その身になんの益があるか」(2〜3)。せっかく努力して積み上げてきたものが、ガラガラと崩れ去ってしまい、むなしさを感じることがあります。
しかし、聖書は言うのです。「労苦はむだになることはない」(58)と。私たちの労苦が、どのような形で実を結ぶのかはわかりません。神さまだけがご存知です。その父なる神さまは、「あなたのしてくれた労苦は、一つも無駄にはしない」と言ってくださるのです。
3.いつも全力を注いで主のわざに励みなさい
@「堅く立って動かされず」。当時も、死者の復活はない、と主張している人たちがいました。それに対してパウロは、主イエスが復活されたのは歴史的事実なのだから、この信仰に堅く立つよ
A「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。私たちは、天国で完成する聖堂を造っているのです。主が私たちを用いてくださるのです。感謝と喜びをもって、主のわざに励みましょう。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年11月04日

「まず神の国と神の義を」

マタイ6:33~34 島津吉成師
私たちは、いろいろなことで思いわずらいます。でもイエスさまは、「 思いわずらうな」と言われました。なぜなら、「父なる神さまは空の鳥を 養い、野の花を美しく装ってくださっている。その神さまは、私たちにも っと良くしてくださらないわけがないではないか。だから、もっと神さま を信頼しよう」と言っておられるのです。そして、さらに言われたのが 、33~34節のみ言葉です。
1.まず神の国と神の義を
優先順位を間違えると混乱してしまいます。イエスさまは、「まず神の国
と神の義とを求めなさい」と言われました。「神の国」とは、「神さまが支
配しておられるところ」という意味です。「神の義」とは、「神さまが願っ
ておられる正しいこと」という意味です。私たちの優先順位の第一は、「神
さまのみこころ」です。私たちは「御国がきますように」、「みこころが天
に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、神さまのみここ
ろが実現することを求めていくのです。そのとき、必要なものは、神さまが
与えてくださると約束してくださっています。
2.使命に生きる
「使命」とは、「命を使う」と書きます。私たちは、何のために命を使う
のでしょうか。お金はとても大事です。でも、お金儲けのためだけに働くと
いうのはつまらないと思います。神さまは、「あなたにはこのことを頼む」
と一人ひとりに使命を託してくださっているのです。神さまが託してくださ
っている使命を果たすために命を使う、ここに、神さまに喜ばれる人生がつ
くられていくのです。
3.今を生きる
イエスさまは、「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあ
す自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分であ
る」と言われました。明日のための準備をしなくて良い、ということではあ
りません。明日のことを心配して、今、なすべきことが手につかない、とい
うことではいけない、ということです。明日のことは明日にゆだねて、今日
なすべきことを精一杯、果たしていくことが大事です。
「まず神の国と神の義を求める」というとき、何よりも、日曜日の礼拝を
大切にしましょう。神さまを第一にするということは、礼拝を第一にすると
いうことです。そのとき、私たちの生活は整えられていきます。神さまから
のいのちをいただいて 今を 精一杯 生きる力が与えられるのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年10月28日

「思いわずらうな」

マタイ6:25〜34 島津吉成師
私たちの生活の中で起きてくる問題について、まず「富」の問題が取り上げられ、続いて「思いわずらい」が取り上げられています。今朝は、32節までのみ言葉から学びます。
1.思いわずらうな
ここでは、食べ物、飲み物、命(寿命)、着物ということがあげられています。そして、これらのことで「思いわずらうな」とイエスさまは言われました。これは、それらのことに心を配り、必要なものを準備しなくてよい、ということではありません。箴言には、蟻は「夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食料を集める」、「そのやり方を見て、知恵を得よ」(6:6〜8新改訳)と言われています。きちんと備えておくことは大事なことです。ここでイエスさまが言っておられるのは、「心配して、心配して、病気になるほど心配する必要はない」ということです。では、どうしたら、思いわずらいから解き放たれることができるのでしょうか。
2.空の鳥、野の花を見よ
@目を外に向けなさい
 私たちが思いわずらうときは、目の前の問題が大きく見えて、そのことだけしか見えなくなってしまうことが多いのではないでしょうか。イエスさまは、その目を外に向けてみなさい。特に神さまが造られた自然の世界に目を向けてごらんなさい、と勧めているのです。そのとき、問題ばかり見ていたときには見えなかったものが見えてきたり、気づかなかったことに気づいたりということが起きてくるのです。
A養い、装ってくださる神さま
 神さまは、空の鳥を養い、野の花を装ってくださいます。もちろん、鳥が何もしないということではありません。鳥なりに、餌を求める努力はしているでしょう。また、野の花も根を張ったりして、花を咲かせるためにできるだけのことをしているでしょう。しかし、空の鳥を養い、野の花を美しく装ってくださっているのは神さまです。空の鳥を養い、野の花を装ってくださる神さまは、私たちに、それ以上よくしてくださらないわけがないではないか、とイエスさまは言われるのです。
3.信仰を大きくする
イエスさまは、「ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われました。「薄い」とは「小さい」という意味です。神さまは大きなお方です。「その神さまを、もっと信頼したらよい」と、イエスさまは言われたのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年10月21日

「光の中を歩む」

ヨハネ第一1:5~9 島津吉成師
1.神は光であって
「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(5)。これは、神さま のどのような性質を表しているでしょうか。神さまが光であるというとき、 その光は、道を照らすともしび、いのち、きよさ、希望、幸いなどが意味さ れています。この5節では、特に「やみ」つまり「罪」と対比されて光とい うことが言われていますので、「罪」と正反対の「きよさ」を意味している ようです。神さまは、きよさそのものであって、私たち人間のように、やみ 、汚れが混じった部分など一つもないお方だということです。 2.光なる神さまと交わる
交わりができるということは、言葉が通じるからです。私たちが光なる神
さまと交わることがゆるされたのは、イエスさまの十字架の血によって罪が
ゆるされ、光の子、神さまの子どもにしていただいたからです。聖書のみ言
葉を通して神さまからの語りかけを聞き、そして、神さまにお祈りすること
ができる。こうして神さまとの交わりが成り立つのです。言葉が通じる間柄
にしていただいたのです。
3.やみの中を歩む
このような恵みの中に入れていただいたのに、弱さを持つ私たちは、うっ
かり失敗することがあります。イエスさまに喜ばれないことであるとわかり
ながらも、それをしてしまう。神さまのみこころに従うよりも、私の願い、
私の考えの方が大きくなってしまうことがあります。イエスさまを心にお迎
えしているのに、イエスさまを隅に押しやってしまうことがあります。この
ように、やみの中を歩いてしまう弱さを私たちは持ち合わせているのではな
いでしょうか。
4.十字架の恵み
でも、み言葉は宣言してくださいます。「御子イエスの血が、すべての罪 からわたしたちをきよめるのである」(7)。イエスさまの十字架の血が、私た ちのすべての罪をきよめてくださるのです。さらに、「もし、わたしたちが 自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆ るし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(9)と約束してくださ っています。私たちの罪を、隠さず神さまの前に持ち出し、お詫びするとき 、真実でいてくださる神さまは、私たちのすべての罪をゆるしてくださるの です。こうして、神さまとの交わりを回復させてくださり、平安と喜びと希 望に生きることができるようにしてくださるのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年10月14日

「天に宝を」

マタイ6:1924  島津吉成師

  マタイ619節から、山上の説教は新しい区分に入ります。私たちが日々の生活の中で直面する問題を取り上げ、その中でどう生きるべきかが教えられています。19節から24節には、富の問題が取り上げられています。今回は、後ろの方から読んでみたいと思います。

1.神と富

「神と富とに兼ね仕えることはできない」(24)と言われています。富それ自体は、決して悪いものではありません。一生懸命に働いて富を得ることは、素晴らしいことです。ここで、イエスさまが言っておられることは、「富に仕える」ということ、つまり富の奴隷となることを戒めておられるのです。自分の利益だけを求める生き方は、やがて破綻します。富は、神さまが私たちにゆだねてくださっているものです。神さまに仕えるという信仰のもとに、神さまからゆだねられているものを神さまに喜ばれるように用いるとき、ここに祝福された生き方がつくられていきます。

2.澄んだ目

 「澄んだ目」(22)とは、「一つのものを見る目」という意味です。これに対して「悪い目」(23)とは、「貪欲な目」という意味です。貪欲な目で物事を見ていると、その人の人生は暗くなります。では、澄んだ目で何を見るのでしょうか。私たちを愛していてくださり、いつも共にいてくださり、必要なものをすべて備えていてくださる神さまを見るのです。そのとき、その人の人生は明るくなります。富を正しく管理することもできるのです。

3.天に宝を

この地上で、どんなに富を蓄えたとしても、それは崩れやすいものです。ですから、「天に、宝をたくわえなさい」(20)と勧められています。これは、自分の生活のためにお金を用いてはいけない、ということを言っているのではありません。自分の体も、家族も、友人も、すべて神さまから預かっているものです。健やかな生活をしていくためにお金を用いることは正しいことです。また、世捨て人のような生活をしなさい、と言っているのでもありません。天とは、隠れた事を見ておられる父なる神さまがおられるところです。「天に宝」とは、その神さまに喜んでいただけるような生き方をしていこう、お金の使い方をしていこう、ということです。そのとき、天国銀行の預金が増えていくのです。やがてのとき、「よくやってくれたね。忠実なしもべよ」という声を聞くことができるでしょう。

 

posted by グロリアスチャペル at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年10月07日

「暗い顔つきをするな」

マタイ6:16〜18 島津吉成師
 当時の社会では、施しと祈りと断食が大事なこととされていました。そこでイエスさまは、まず6章1節で、「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」と言って、信仰生活の基本を教えられ、それに基づいて、施しと祈りについて、どうあるべきかを教えてくださいました。そして、それに続いて、断食について教えてくださっています。
1.人に見せようとして
断食は、祈りに集中するために、食事を抜いて祈るという、祈りの仕方です。当時、宗教的に熱心なパリサイ人は週に2度、断食をしていたようです(ルカ18:12)。ところが、本来は良いものであったはずの断食ですが、それを、自分がいかに信仰深いかを表す道具としてしまう人がいたのです。イエスさまは、そのような人たちのことを「彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである」と言っています。「私は顔がやつれるほど断食をして、祈っているのですよ」ということを人に見せて、「なんて信仰深い人なのでしょう」という称賛を得ようとするのです。
これは、断食に限らず、私たちにもやってくる誘惑ではないでしょうか。自分の熱心さを人に見せて、人から褒められたいという誘惑です。
2.隠れたことを見ておられる神
そこでイエスさまは、「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食していることが人に知られないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」と言われました。
イエスさまは、「いかにも断食をしています、というような顔をするな」と言われるのです。断食は、人に見せるためではなく、神さまに集中するためだからです。そして、これは断食に限らず、私たちの信仰生活にとって大事なことです。私たちは人の前に生きるのではなく、神の前に生きるのです。そして、隠れた所でなされた隠れた事を、父なる神さまはちゃんと見ていてくださるのです。この信仰に立つとき、人の評価に左右されない正しい生き方が生まれてくるのです。
3.暗い顔つきをするな
イエスさまは、断食をするときには「陰気な(暗い)顔つきをするな」と言われました。もちろん、苦しい時には暗い顔になるでしょう。しかし、復活の主がおられるのです。その主を信じるとき、私たちは暗い顔から明るい顔へと変えられていくのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年09月30日

「ゆるしの恵み」

マタイ6:14〜15 島津吉成師
 主の祈りの中でも、ゆるしについての祈りがありましたが、イエスさまは、もう一度、念を押すように、ゆるしについて語られました。それほど、ゆるしということが大事なことなのだ、ということだと思います。
1.ゆるせない?
14節、15節のみ言葉を聞いて、どう思われたでしょうか。「ゆるせない、という思いが、私の中にはあるなあ」、「ゆるすということは難しいなあ」、「そうすると、私は神さまからゆるしていただくことはできないのかなあ」、そんなことを思われた方がおられるかもしれません。
「ゆるす」ということは、本当に難しいことだと思います。それは、自分が努力して、頑張って、出来るようになるということではないように思います。だからこそ、イエスさまは「ゆるし」ということを「主の祈り」の中に入れておられるのだと思います。私たちは、どんなときに祈るでしょうか。自分の力ではどうにもならないという問題に直面した時に、必死になって祈るのではないでしょうか。まさに「ゆるし」は、自分の力ではできないことです。ですからイエスさまは、祈るようにと私たちを導いてくださっているのです。
2.ゆるしの恵み
イエスさまの十字架のゆえに、父なる神さまは私たちの罪をゆるしてくださいました。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Tヨハネ1:7)と言われているように、「すべての罪」からきよめてくださるのです。そのゆるしは、完全なゆるしです。そして、「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起さない」(エレミヤ31:34)とさえ言ってくださるのです。
イエスさまは、1万タラントの借金をゆるしてもらったのに、百デナリ貸している人をゆるすことができなかった人の話をなさいました。神さまから、自分がどんなに多くの罪をゆるしてもらったのかを知るとき、その人は、人のことをゆるすことができるようになっていくはずだと、イエスさまは言われるのです。イエスさまは、私たちがゆるし合って生きることができるようにしてくださったのです。
3.教会は、ゆるしの共同体
教会は、ゆるしの共同体です。イエスさまは、私たちを、互いにゆるし合う恵みの中に生きることができるようにしてくださったのです(コロサイ3:13)。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年09月23日

「悪しき者からお救いください」

マタイ6:9〜13 島津吉成師
 主の祈りの最後の祈りは、「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」です。
1.試みに会わせないで
「試み」と訳されている言葉(ペイラスモス)は、試練とも誘惑とも訳すことができる言葉だそうです。試練は、私たちの信仰を鍛え、私たちを成長させ、成熟させる働きをします。これに対して、誘惑は私たちの欲望に働きかけて、私たちを神さまから引き離そうとするのです。
サタンはエバを誘惑してきました。まず、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と言って、神さまは厳しいお方で、信仰生活は窮屈な生活だと思わせようとしました。さらに「それを食べると神のようになる」と言って、神さまから離れて、自由に生きる方がいいではないか、と誘ったのです。その実は、食欲をそそり、見た目も美しく、また食べると賢くなりそうでした。こうして、エバは誘惑に負けて、その実を食べてしまったのです。その結果、アダムとエバは、神さまから身を隠すようになりました。神さまとの交わりに亀裂が入ってしまったのです。
「会わせないで」とは、聖書の言語では、「引っ張っていく」という意味があります。ですから、「わたしたちを試みに会わせないで」とは、「誘惑に引っ張り込まれないように守ってください」という意味になります。
2.悪しき者からお救いください
サタンは、私たちを信仰から引き離そうとして働いています。しかし、イエスさまは、十字架と復活によって、そのサタンに勝利してくださいました。このイエスさまが共にいてくださるので、私たちも誘惑に勝っていくことができるのです。父なる神さまは、私たちを悪しき者から救ってくださいます。
そのために大事なことは、以下のことです。
@誘惑に近づかないようにしましょう。
A心を点検する習慣を身に付けましょう。思いと言葉と行動が、神さまに喜ばれない方向に行っていないか、点検しましょう。
B神さまの恵みを数えましょう。
C信仰に立ち続けましょう。失敗したら、すぐに悔い改めましょう。「神に従いなさい。そして悪魔に立ちむかいなさい」(ヤコブ4:7)。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年09月16日

「感謝」

コロサイ3:15〜17 島津吉成師
 今朝の礼拝は、恵老感謝/賛美礼拝です。今年から、ここまで守り支えてくださった主の恵みを感謝するという意味で、「敬老」を「恵老」という言葉にしました。さて、コロサイ3章15〜17節には、「感謝」という言葉が3回出てきます。
1.感謝の心
15節の後半を、新改訳聖書は「感謝の心を持つ人になりなさい」と訳しています。イエスさまは、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々を養ってくださいました。弟子たちは、5つのパンと2匹の魚を見て、「こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」(ヨハネ6:9)と言いました。しかし、イエスさまは、パンと魚を受け取り、それを感謝されたのです(6:11)。奇跡は、ここから始まりました。イエスさまがパンと魚を分け与えたとき、人々はお腹一杯食べることができたのです。私たちは、足りない方だけを数えがちです。そして不平を言うのです。しかしイエスさまは、今、与えられているものを手にして、感謝されたのです。私たちも、このような感謝の心を持ちたいものです。
2.キリスト言葉を豊かに宿らせ
では、どうしたら感謝の心を持つことができるのでしょうか。「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(16)といわれています。聖書のみ言葉を、心に蓄えましょう。み言葉によって養われ、育てられていくとき、感謝の心を持つ人となっていくことができるのです。
3.いっさい主イエスの名によってなし
「イエスの名によってなし」(17)とは、「イエスさまご自身によって」ということです。感謝に生きる生活は、私たちが頑張って行う生活ではありません。イエスさまが、力を与えてくださるのです。
私たちは、主の祈りの学びの中で、「御国を来たらせたまえ」との祈りは、「神さまの愛と平和の国が拡大していきますように」という意味だと学びました。私たちは、この地上に生かされている間、一人ひとりにこの使命が与えられているのです。また、神さまは人間を「神のかたち」に造ってくださいました。それは、神さまは私たちをロボットのように造られたのではなく、自由と愛の心を与えてくださったということです。ですから私たちは、神の国が拡大していくために何をしたらよいでしょうか、と神さまと相談しつつ、出来ることをさせていただきましょう。ここに、最後まで生きがいをもって感謝に生きる、素晴らしい人生がつくられていくのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記