2019年07月14日

「恵みと平安」

テサロニケ第一1:1 島津吉成師

1.テサロニケ教会
今朝の礼拝から、テサロニケ人への第一の手紙を読んで、そこから神さまの語りかけを聞きつつ礼拝をささげていきたいと思います。
パウロは、トロアスで「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(使徒16:9)との幻を見て、マケドニヤに渡ります。そしてまず、ピリピで伝道しました。その次に行ったのがテサロニケでした。ここでの伝道の様子については、使徒行伝17章に書かれています。救われる人も起きたのですが、激しい迫害も起きました。そのためパウロたちはテサロニケにいることができなくなり、次の町に行くことになります。でも、テサロニケ教会のことが心配でしたので、アテネからテモテをテサロニケに遣わします(Tテサロニケ2:2)。パウロは伝道旅行を進めコリントにいたとき(使徒18:5)、テモテが戻ってきて、テサロニケ教会の人たちが迫害に負けず、信仰と愛に励んでいるとの報告を受けます(Tテサロニケ3:6)。パウロはその報告を聞いて喜び、またテサロニケ教会が抱えている課題もあることを聞いたので、それについての回答も書き送るために、この手紙が書かれました。
2.父なる神とキリストの中にある教会
パウロは、「父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ」と呼び掛けています。「とにある」とは、直訳すると「中にある」という意味です。教会は、同好会ではありません。父なる神が主イエスのもとに私たちを呼び集めてくださり、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、神の子としてくださり、神さまを「アバ父よ」と呼ぶことができるようにしてくださいました。こうして、父なる神と主イエスが握りしめていてくださる、それが教会です。だから、迫害の中でもテサロニケ教会は負けることがなかったのです。
3.恵みと平安
恵みとは、受けるに値しない者に与えられる神さまからのプレゼントです。この恵みが見えなくなると、不平や不満がわいてきます。受けるに値しない者をあえて選び、握りしめていてくださるという恵みを、はっきりと自覚していくということが大事なことです。
十字架の恵みによって私たちは罪を赦され、平安が与えられます。父なる神さまをまっすぐに見ることができるようにされるのです。赦された者は、赦す者とされていきます。こうして平和がつくられていくのです。

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2019年07月07日

「信仰の継承」

創世記25:1〜11 島津吉成師

1.アブラハムの再婚
アブラハムはサラの亡き後、ケトラをめとりました。私たちの感覚からすると、サラのことをずっと思って生涯を終える方が美しいように思いますが、晩年の生活を支えてくれる人が必要だったのかもしれません。結果として、ケトラとの間に子どもたちが生まれ、「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)という神さまの約束が、このようにして実現していったのでした。
2.アブラハムの生涯
8節を共同訳聖書はこのように訳しています。「アブラハムは良き晩年を迎え、老いた後、生涯を全うして息絶え、死んで先祖の列に加えられた」。
「人は生きてきたように死ぬ」と言われます。アブラハムのこのような生涯の終わり方は、彼がこれまでどのように生きてきたかの表われでした。
@罪の赦しによる平安に生きる
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(15:6)。アブラハムは、神さまの恵みを信じました。そのとき、神さまは彼を正しい者と認めてくださったのです。イエス・キリストの十字架が私の罪の身代わりだったということを信じるとき、神さまは私たちの罪を赦し、義と認めてくださいます。ここから、神さまの前に平安な心で生きる歩みが始まります。
A生涯を全うする
アブラハムは「生涯を全うし」た、と書かれています。人生の長い短いが問題なのではなく、大切なことは、神さまが与えてくださる務めを全うすることです。パウロはテモテに、「自分の務めを全うしなさい」(Uテモテ4:5)と勧めています。生かされているということは、使命が与えられているということです。与えられた務めを全うする、そのような生涯を歩み抜きたいものです。
B天の希望に生きる
ヘブル11章には、アブラハムなど信仰に生きた人たちのことを数え上げて、「彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(16)と記しています。アブラハムは、天の希望に生きたのです。
3.信仰の継承
アブラハムが死んだとき、イサクとイシマエルが彼を葬りました。イシマエルも、神さまの恵みの中にあるのです。神さまは、イサクを祝福されました。アブラハムに与えられた祝福が、イサクに受け継がれたのです。
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2019年06月30日

「祝福された結婚」

創世記24:1〜9 島津吉成師

1.祈り
アブラハムはイサクの嫁を探すために、しもべを故郷に遣わします。そのとき、アブラハムはしもべに言いました。「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」。主が先に行って、働いていてくださるのです。
しもべは、アブラハムの故郷に着くと、井戸のそばで祈りました。「私が水を飲ませてくださいと頼んだとき、『あなたのらくだにも飲ませましょう』と言う娘がいたら、その者こそ、イサクのために定められた者ということにしてください」。しもべは、このような心優しい人こそ、イサクの嫁にふさわしいと思ったのです。
2.祈りの答え
しもべがまだ祈り終えないうちに、リベカがやってきます。そして、しもべが「水を飲ませてください」と頼むと、彼に水を飲ませただけでなく、らくだにも水を汲んで飲ませてくれたのです。しもべが、彼女に「誰の娘か」と聞くと、何と、アブラハムの親族の娘であることがわかりました。それを知ったしもべは、主に感謝の祈りをささげます。
しもべは、彼女の家に行き、事の顛末を話します。すると、リベカの兄ラバンとリベカの父ベトエルは、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことはできません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」と答えます。さらに、翌日、しもべは、リベカを連れてすぐに帰らせてほしいと願い出ます。そのことをリベカに聞くと、リベカは「行きます」と答え、旅立つのです。
ここには、現代の結婚の状況とはかなり違った様子が書かれています。しかし、ここに、結婚の一番大事なことは何か、ということが記されているのです。それは、「神が合わせてくださった」という信仰です。これが、結婚生活を支えるのです。
3.見ていてくださる神
 62節以下には、イサクとリベカが出会い、彼らが互いに愛し合い、幸いな家庭を築いていった様子が美しく描かれています。62節には、「ベエル・ラハイ・ロイからきて」と書かれています。「ベエル・ラハイ・ロイ」とは、「私をご覧になる生きている方の井戸」という意味です。かつて、ハガルが逃げ出した時、神さまが彼女と出会ってくださった場所です。見ていてくださる神が、それぞれの人生を、支え、導いてくださるのです。
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2019年06月23日

「旅人、寄留者として生きる」

創世記23:1〜9 島津吉成師

1.サラの死
アブラハムの妻、サラが亡くなりました。長い年月、苦労を共にしてきた妻サラが亡くなったのです。アブラハムは、悲しみ泣きました。アブラハムにとって、妻サラを失うということがどんなに辛いことだったかということが、この短い言葉の中に表されています。キリスト者は、復活の希望に生きています。しかし、地上で再び愛する者の声を聞くことができないということは、やはり、大きな悲しみです。悲しいときに、それを抑えるのではなく、泣き、悲しむということは大事なことです。ですから、誰かが悲しんでいるときに、安易な励ましを語ることよりも、「泣く者と共に泣く」ということが大切です。
2.墓を求める
悲しみ泣いたアブラハムは、そこから立ち上がります。悲しみを十分に出すとき、不思議と立ち上がる力が与えられるのです。
アブラハムは、サラを葬る墓地を与えてほしいと、その地の人々に願い出ます。そのときアブラハムは、自分のことを「旅の者で寄留者ですが」と言っています。神さまを信じて生きる者にとって、本当の故郷は天の御国です。天の御国に国籍を持つ者として、この地上では、旅人であり、寄留者なのです。つまり、この地上の価値観に埋没しないで、この地上にあって、天の御国の市民として生きるのです。それが、「地の塩、世の光」としての生き方です。
地元の人は、「自分たちの墓地の中に葬りなさい」と提案します。これは、この地の人々の中に同化してしてしまうということにつながってしまいます。それでアブラハムは、エフロンという人が持っている畑の一部を買わせてほしい、と願い出ます。そして、法外な値段を要求されるのですが、きちんとした手続きをして、彼はその畑を買い取ります。ここに、天の御国の市民、この地上では寄留者として生きる者の生き方が示されています。犠牲を払ってでも、礼を尽くし、人々との良い関係を築き、責任を果たすことによって、証しを立てていくということです。
3.墓の意味
 @故人を偲び、感謝を新たにする場所。
 A復活の信仰を新たにする場所。イエスさまは、墓に葬られましたが、死を打ち破ってよみがえられました。この復活の恵みを私たちにも与えてくださるのです。私たちは、墓の前に立ち、この信仰を新たにするのです。
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2019年06月16日

「神が証ししてくださる」ヨハネ第一5:6〜12

私はここ2か月ほど、一つの賛美を歌い続けています。「御名を掲げて」という賛美です。その歌詞の中に「救いの道を 与えに」というフレーズがあります。こんな私のために、イエスさまがすべての栄光を捨てて、天から来てくださったのだと思ったら、嬉しかったです。喜びでした。
1.神のあかし
さて、今朝、与えられているヨハネ第一5章6〜12節には、「あかし」という言葉が繰り返し記されています。「あかし」とは、もともと裁判用語で、明確な根拠を示すことに用いられます。信仰が真実なものであるか、その確かさの根拠はどこにあるか、ということです。
6節に、そのあかしをするものは「御霊」である、と言われています。そして、そのすぐ後で「神のあかし」という言葉が繰り返し出てきます。つまり、神さまご自身があかししてくださるということです。人間のあかしに勝って、これほど確かなあかしはありません。ですから、神さまがあかししてくださることを、私たちは喜んで受け取るのです。
2.水と血と永遠のいのち
神さまがあかししてくださること、それが6節から語られている言葉です。「イエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」。水は洗礼、血は十字架を意味しています。イエスさまは、なぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。洗礼は罪ある人間がきよめていただくために受けるものです。イエスさまは神の御子であり、罪のないお方でしたが、そのイエスさまが洗礼を受けられたということは、イエスさまは罪人の仲間入りをしてくださった、ということです。
そして、イエスさまは十字架につけられ、血を流されました。すべての人の罪を担って、ご自分の命を捨てて、十字架ですべての罪を処分してくださったのです。こうして、イエスさまは私たちの罪が赦される道、私たちが神さまと交わることのできる道を開いてくださったのです。この水と血を通って勝利してくださったイエスさまが救い主であることを、御霊は、すなわち神さまはあかししてくださっているのです。
さらに、「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(11〜12)とあります。私たちに、永遠のいのち、死に勝ついのちが与えられていることを、神さまはあかししてくださっているのです。
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2019年06月09日

「聖霊によって誕生した教会」使徒2:1〜4、41〜47

1.弟子たちに聖霊が降る
イエスさまは弟子たちに、ご自分が天に帰られた後、別の助け主を送るから、祈って待つようにと言われました(ヨハネ14:16、使徒1:4)。イエスさまの言葉に従って、弟子たちが集まって祈っていたとき、聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは聖霊に満たされたのです。これがペンテコステの出来事です。
聖霊は、旧約聖書の時代にも特別な時に特別な人に与えられていました。しかし、このペンテコステ以降、イエスさまを信じるすべての人に聖霊は与えられているのです(Tコリント6:19)。
使徒2章2〜3節には、聖霊がどのようなお方かということが、風と炎と舌に譬えて語られています。
@風 
 聖書の原語では、「風」と訳されている言葉には、「息」という意味もあります。エゼキエル書には、枯れた骨に息が吹き込まれると生き返ったという幻のことが記されています(エゼキエル37章)。聖霊は、疲れ切った人にも新しい生命を与え、立ち上がらせてくださるお方です。
A炎
 炎は、物を焼き尽くします。聖霊は、罪を焼き尽くし、私たちの心をきよめてくださるお方です。
B舌
 聖霊は、私たちの言葉を変えてくださいます。不平と不満しか口から出ないような者を、賛美と感謝の言葉が出て来る者へと変えてくださるのです。特に、ペンテコステのとき、弟子たちは他国の言葉で語り出し、外国から来た人たちにも、彼らの話すことがわかった、ということが起きました。バベルの塔以来、言葉が違ってしまったため、人と人との間に壁ができてしまいました。聖霊は、その壁を除き、人と人との心が通じ合えるようにしてくださるのです。
2.教会の誕生
こうして、教会が誕生しました。その教会の様子が41節以下に書かれています。彼らは、「ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをして」いました。そして、互いに愛し合いました。このような教会に、主は仲間に加わる人々を送ってくださったのです。
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2019年06月02日

「光は闇の中に」 須郷裕介師

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの手紙第一 1章9節)


「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」(詩篇30篇5節)
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2019年05月26日

「主の山に備えあり」

創世記22:1〜19 島津吉成師

1.試練
創世記22章は、アブラハムの生涯のクライマックスだと言われます。神さまはアブラハムを試みられました。神さまは、試練を通してアブラハムの信仰をさらに高嶺へと引き上げられようとされたのです。
アブラハムへの試練、それは愛するひとり子イサクを燔祭としてささげよ、というものでした。燔祭は、動物などを焼き尽くして、神さまへのささげ物とするということです。神さまがこのようなことを命じられるとは、考えられないことです。わが子を殺すということ、しかも祝福を受け継ぐ子として神さまが与えてくださったイサクを殺すなどということは、とても受け入れられないことです。
2.アブラハムの信仰
ところが、アブラハムはこの神さまの命令に淡々と従います。内面では、大きな葛藤があったと思いますが、聖書はそのことに触れていません。聖書はアブラハムの信仰がどのようなものであったかを描き出すのです。自分が理解できないことであっても、神さまを信頼して従う、これがアブラハムに与えられた試練でした。アブラハムはイサクから「燔祭の小羊はどこにありますか」と聞かれたとき、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えています。「備える」と訳されている言葉には、「見る」という意味があります。彼は、「神さまが見ていてくださる」と答えたのです。自分には理解できない、自分の描いていた将来の計画も見えなくなってしまったという状況の中で、アブラハムは、神さまは見ていてくださる、そして最善の備えをしてくださっている、と信じたのです。
3.主の山に備えあり
 アブラハムは、神さまが示された山に着くと、イサクを縛り、刃物を振り上げます。そのとき、御使いがアブラハムを呼び、「わらべに手をかけてはならない」と言って止めます。アブラハムが目をあげて見ると、そこに一頭の雄羊がいました。彼はそれをイサクの代わりに燔祭としてささげました。そして、アブラハムはその所をアドナイ・エレ(主の山に備えあり)と呼んだのです。確かに、神さまは、見ていてくださり、備えていてくださるお方でした。アブラハムは、イサクをわが子として握りしめていました。その子を、ここで神さまにささげました。そして、神さまから預かった子としてイサクを受け取り直したのです。こうして、神さまはアブラハムの家庭を、祝福を受け継ぐ家庭としてきよめてくださったのです。
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2019年05月19日

「神はあなたと共におられる」

創世記21:22〜34 島津吉成師

1.寄留の地で
アブラハムは神さまに導かれて、神さまが示してくださる地に来ましたが、まだ一坪の土地も与えられていませんでした。彼は、言わば外国から来た人がそこで生活しているという状態だったのです。ですから、とても弱い立場でした。しかも、現地の人たちと井戸のことで争いがあったようです。アブラハムが掘った井戸が、現地の人たちに奪われてしまったのです。この地方は水が少ないので、せっかく掘った井戸が人に奪われてしまうということは大きな問題でした。
2.神はあなたと共におられる
この地方の王様であるアビメレクと軍勢の長ピコルが、アブラハムのところに来ました。そして、お互いに危害を加えない、という契約を結ぼうと提案します。アブラハムは、「わたしは誓います」と言ってその申し出を受け入れますが、アビメレクの部下たちによって奪われた井戸を返すように求めます。アビメレクは、そのことを知らなかったと言って言い逃れをしようとしますが、返すことを約束します。
どうして強い立場にあるアビメレクが、アブラハムとこのような契約を結ぼうとしたのでしょうか。それは、アビメレクが言った「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」という言葉に鍵があります。アビメレクはアブラハムの生活を見て、「神が彼と共におられる」ということを感じ、彼と争ったら大変なことになると思ったのでしょう。それは、アブラハムが立派だったからでしょうか。そうではないと思います。イサクの誕生が、アビメレクに強い印象を与えたのではないでしょうか。人間的には全く希望が持てない状態の中で、神さまが彼らに子どもを与えてくださったのです。そのことを見て、アビメレクは「神がアブラハムと共におられる」ということを感じたのだと思います。
3.イエス・キリストによって
 イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)を実現するために来てくださいました。私たちは、罪のために神さまとの関係が断絶していたのです。イエスさまが、その罪を代わりに負って十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪は赦され、神さまとの交わりが回復し、「神われらと共にいます」が実現したのです。こうして、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)と言われているように、私たちも力強く歩んで行くことができるのです。
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2019年05月12日

「恐れてはいけない」

創世記21:8〜21 島津吉成師
1.サラの訴えとアブラハムの心配(苦しみ)
アブラハムはイサクが乳離れしたとき、盛大なお祝い会をしました。当時は、3歳位が乳離れのときだったそうです。この喜びのときが、一転して苦しみのときとなってしまいました。サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサクと遊んでいるのをサラが見たのです。「遊ぶ」と訳されているところを、別の翻訳の聖書では「からかっている」と訳しています。サラは、アブラハムに訴えます。「このはしためとその子を追い出してください」。サラは、イシマエルが後継ぎとなることを恐れたのです。アブラハムは、イシマエルも自分の子どもなので、とても苦しみました。
2.心配することはない
そのとき神さまは、アブラハムに言われました。「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。アブラハムは神さまの約束を信じることができず、人間的な策をろうして生まれたのがイシマエルでした。信仰の父アブラハムは、不信仰から離れなければならなかったのです。これは、私たちの問題です。神さまを信じて、神さまに従うよりも、自分の計算で事を行ってしまっていることはないでしょうか。「あなたの内から、不信仰を追い出せ」と神さまは言っておられるのです。
神さまはアブラハムに、イシマエルのことも祝福してくださる、と約束してくださいました。失敗をして生じてしまった結果の中にも、神さまのあわれみのみ手が伸ばされているのです。
3.目を開かせてくださる神さま
追放されてしまったハガルとイシマエルは、荒野をさまよい、ついに皮袋の水が尽きてしまいました。イシマエルは声をあげて泣きました。そのとき、天の使いがハガルを呼びました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない」。神さまは、イシマエルも一つの国民とすると約束してくださっていました。ところが、ハガルはそのことを信じることができず、「もう終わりだ」と思ってしまっていたのです。神さまは彼女の目を開いてくださいました。すると、すぐ近くに井戸があるのに気づきました。もう駄目だと思うすぐそこに、神さまの救いは備えられていたのです。
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