2017年12月31日

「わたしの霊による」

ゼカリヤ4:6〜7 島津吉成師
 今年、私たちは会堂建設という大きな事業に挑戦し、新しい会堂が与えられました。ゼカリヤ4章6節は、この会堂建設に当たって、私たちが導かれ、励まされてきたみ言葉です。
1.ゼルバベルの苦悩
 バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は、神殿の再建工事を始めます。しかし、その工事は途中で挫折し、16年も中断してしまったのです。それは、外部の人々からの妨害と共に、イスラエルの民が自分たちのことで手一杯で、工事を途中で投げ出してしまったことによるものでした。総督ゼルバベルは、バビロンによって破壊された神殿ががれきの山となって放置されている姿を前にして、自分の指導力のなさを痛感していたことでしょう。
2.わたしの霊による
 そのゼルバベルに、主は語りかけてくださいました。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」。権勢とは軍隊などの集団の力、能力は個人の力を意味していると言われます。ゼルバベルは、ダビデ王のときのような強力な軍隊があったらどんなに助かるだろうと思ったことでしょう。また、自分にダビデ王のような指導力があったらとも思ったことでしょう。しかし、主は言われるのです。「神殿再建の工事は、集団の力によるのでもなく、個人の力によるのでもない。わたしの霊によるのだ」と。
 権勢も能力も、それは人間の力です。ゼルバベルは、その人間の力に行き詰っていました。主はそのゼルバベルに、人間の力により頼む生き方から、神さまにより頼む生き方へと転換するように導かれたのです。自分を神さまにささげ、明け渡し、従うのです。そのとき、神さまがしてくださる、神さまがさせてくださる、そのような歩みが始まるのです。
3.主の恵みに感謝
 このように、神さまにより頼む生き方へと転換していくとき、今まで自分の力ではできなかったことができるようになっていきます。神さまが働いてくださるからです。大きな山のように見えていた問題も、平地へと変わっていきます。「恵みあれ」と叫びながらかしら石を引き出すように、神さまの恵みに感謝しつつ、物事を進めていくことができるのです。
 私たちをこのように導いてくださり、新しい会堂を与えてくださった主に感謝しつつ、新しい年、さらに主と共に歩んでいきましょう。
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2017年12月24日

「クリスマスの喜び」

マタイ2:1〜12 島津吉成師
 救い主の誕生の知らせを聞いて、不安を感じた人と喜びにあふれた人がいました。
1.ヘロデの不安
 イエスさまがお生まれになったとき、東の国から博士たちが来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」と尋ねました。ヘロデ王はそれを聞いて不安になりました。自分の地位が脅かされると思ったのです。律法学者たちに聞くと、聖書には、ベツレヘムで生まれると書かれているということがわかりました。それでヘロデは、そのことを博士たちに伝え、「見つかったらわたしにも知らせてくれ」と頼みました。ヘロデは、その幼子が見つかったら、殺してしまおうと思ったのです。ヘロデはとても猜疑心の強い人だったようです。彼は周りの人たちを信用することができず、自分の地位を狙っていると疑って、自分の妻や3人の子どもまで殺してしまったそうです。
 自分が自分の人生の王様で、自分しか信じられるものはいないと思っている人は、いつも不安です。心に平安を持つことができません。
2.博士たちの喜び
博士たちは、特別な星を見つけ、それが、ユダヤの国に本当の王として救い主がおいでくださるということを知らせるしるしだと受け止めて、救い主を拝みにやってきました。彼らは、天文学者だったのではないかと言われています。そして、当時の天文学者は星占いもしていたそうです。人生は、運命によって定められている、それが彼らの人生観でした。しかし、彼ら自身が、その人生観に行き詰まりを感じていたのではないでしょうか。
博士たちは、聖書にも触れていたと思います。聖書には、本当の王としておいでくださる救い主は、ヘロデのような暴君ではなく、「わが民イスラエルの牧者となる」と言われているように、羊のことを親身になって世話をする羊飼いのようなお方だ、と教えられています。
博士たちは、ついにイエスさまのところに導かれます。そして、ひれ伏して拝み、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬などの贈り物をささげました。博士たちは、自分の人生の王としてイエスさまを迎えたのです。そのとき、運命によって定められているという人生観から解放されて、喜びと、平安と、勇気をもって生きる歩みが始まったのです。
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2017年12月17日

「神われらと共にいます」

マタイ1:18〜25 島津吉成師
 マタイによる福音書には、ヨセフの側からの救い主誕生の出来事が記されています。
1.ヨセフの悩み
 ヨセフは、婚約者のマリヤが妊娠しているということがわかりました。相手は誰なのか。ヨセフのショックは大きかったと思います。当時、結婚相手以外の人と結ばれるということは、死罪に当たるとされていました。ヨセフは、このようなマリヤを妻として迎えることはできないと思ったようです。しかし、公に訴えるならば、彼女は死罪になってしまいます。そこで彼は、ひそかに離縁しようとします。そうすれば、マリヤは守られます。事情を知らない人々は、ヨセフがマリヤを妊娠させて、その上で離縁したということでヨセフを非難するでしょう。ヨセフは、非難は自分が引き受けて、マリヤを救おうとしたのです。
2.主の使いのみ告げ
ヨセフが悩んでいたとき、主の使いが夢に現れてヨセフに語りかけました。
@「心配しないで」。このことは神さまがなさっておられることだから、「心配するな」と主の使いは告げたのです。
A「聖霊による」。すべての人を罪から救う救い主は、ご自分が罪のないお方でなければなりません。ですから救い主は、聖霊によって、罪のないお方として誕生してくださったのです。
B「インマヌエル」。救い主は、高い所にいて罪に悩む人々を見下ろしているのではなく、人となって、罪に悩み苦しむ人々のところに降りて来てくださったのです。ですから、救い主は「インマヌエル(神われらと共にいます)と呼ばれる」と預言されていたのです(イザヤ7:14)。
3.主の使いが命じたとおりに
 ヨセフは、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えました。その後、救い主を殺そうとするヘロデ王から逃れるため、家族を守ってエジプトに行き、さらにナザレに戻って大工の仕事をしながら家族を支えました。ヨセフは、黙々と神さまに従い、神さまが託してくださった使命に生き抜いたのです。神さまは、そのヨセフと共にいてくださいました。神さまは、神に従う人と共にいてくださり、その人を通して主の御業を行ってくださるのです。
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2017年12月10日

「降りて来てくださる救い主」

マタイ1:1 島津吉成師
新約聖書の冒頭、マタイによる福音書の1章は系図で始まっています。この系図には、どんな意味があるのでしょうか。
1.約束の成就
 「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と書き始められています。アブラハムは、信仰の父と呼ばれる人です。神さまはアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)と約束されました。ダビデは、イスラエル王国を建て上げた偉大な王様です。神さまはダビデに、「わたしは彼(ダビデの子)を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう」(歴代上17:14)と約束されました。神さまは、アブラハムとダビデの子孫によって、すべての人を祝福し、神の国を堅く立てると約束してくださったのです。そして、その約束の成就として、イエス・キリストが来てくださった、とマタイによる福音書は告げているのです。神さまは、約束してくださったことを途中で投げ出すようなことはなさいません。必ず完成してくださいます。この系図は、そのことを私たちに告げているのです。 
2.降りて来てくださる救い主
では、その救い主はどのようなお方なのでしょうか。「だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて14代、ダビデからバビロンへ移されるまでは14代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは14代である」(17)とあります。ここに、アブラハムからキリストまでの時代が3つに分けられています。アブラハムからダビデまでの時代は、遊牧の民から王国の建設へと至る、上へと上って行く時代です。次の時代は、その王国が衰え、ついに滅亡する時代です。そして最後の時代は、旧約聖書にはもうほとんど名前を見つけることができないほど、どん底に落ちてしまった時代です。それは、すべて人間の罪のゆえでした。そのどん底に、キリストは神の子としての位を捨てて、降りて来てくださったのです。その人々を救うために。
3.かけがえのない一人ひとり
 系図に記されている中の一人がいなかったとしたら、この系図は続いて行きません。一人ひとりがかけがえのない存在です。私たちは、主の恵みを手渡す者として、次の世代にバトンを手渡していきましょう。
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2017年12月03日

「切り株から新芽が」

イザヤ11:1〜2 島津吉成師
本日から待降節(アドベント)が始まります。イエスさまのご降誕を祝うクリスマスを迎える心を整えるときです。
1.エッサイの株から
 「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」とあります。「エッサイ」はダビデ王のお父さんです。エッサイの息子であるダビデによって建設された王国は、やがて神さまに背を向け、政治も社会も腐敗し、外国の軍隊によって滅ぼされてしまいます。「株」と言われているのは、「切り株」のことで、イスラエルの国は、木が切り倒されてしまうように、間もなく滅ぼされてしまう、ということが言われているのです。
 しかし、そこから「一つの芽」が出ると言われています。この「一つの芽」こそ、救い主、イエスさまのことです。木が切り倒されて、もうおしまいだという状況の中に、神さまは救い主を送ってくださるというのです。そして、新しい歩みをしていくことができるようにしてくださるのです。ですから私たちは、絶望的な状況の中でも、希望を持つことができるのです。
2.主の霊
「その上に主の霊がとどまる」と言われています。人間的な力によって芽が出るのではないのです。主の霊が働いてくださるので、新しい芽が出てくるのです。主の霊が力を与えてくださるので、絶望の中から立ち上がることができるのです。
この主の霊について、次のように言われています。@知恵と悟りの霊=知的な面。A深慮(思慮)と才能(力・勇気)の霊=実際的な面。B主を知る知識と主を恐れる霊=敬虔な品性を造る。イエスさまは、まさにこのような主の霊に満たされていました。そして神さまは、私たちにもこの主の霊を与えてくださるのです。
3.平和
「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ」(6)と言われています。共にいることなど考えられないものたちが、共に暮らせるようになるのです。これが、救い主が来てくださるときに起きるのです。罪を悔い改め、イエスさまを信じるとき、お互いを赦し合い、愛し合うことができるようにしてくださるのです。
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