2018年02月25日

「あわれみ深い人」

マタイ5:7 島津吉成師
 主イエスは、「あわれみ深い人たちは、さいわいである」と言われました。
1.あなたも行って同じようにしなさい
主イエスがお話しくださった譬え話の中でも、「良きサマリヤ人」の話は有名です(ルカ10:30〜37)。ある人が強盗に襲われてしまいました。神殿に仕える祭司とレビ人が通りかかりましたが、急いでいたのか、ここに留まっていたら自分も襲われるかもしれないと思ったのか、面倒なことに関わり合いたくないと思ったのか、ともかく、通り過ぎて行ってしまいました。そこに、サマリヤ人が通りかかり、@気の毒に思い、A近寄って来て、B傷にオリブ油とぶどう酒とを注ぎ、Cほうたいをし、D自分の家畜に乗せ、E宿屋に連れて行き、F介抱した。G翌日、デナリ2つを取り出して宿屋の主人に手渡し、H「この人を見てやってください」と頼み、I「費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」と言った。
この話をされた後、主イエスは律法学者に聞きました。「祭司とレビ人とサマリヤ人と、この3人のうちで、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。律法学者は答えます。「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこで主イエスは言われました。「あなたも行って同じようにしなさい」。
さて皆さんは、この主イエスの言葉を聞いて、どう感じるでしょうか。「私には、このサマリヤ人のような慈悲深いことはできないなぁ」と思うのではないでしょうか。「あわれみ深い人たちは、さいわいである」と主イエスは言われましたが、あわれみ深く生きるということは、簡単なようで、案外、難しいのです。いえ、人間の力ではできないのです。
2.良きサマリヤ人とは、だれのことか
実は、強盗に襲われた人とは、私たちのことです。自分の罪によって傷つき、そのまま放っておかれたら滅んでしまう存在、それが私たち人間の姿でした。その私たちを救うために来てくださったのが主イエスです。ですから、あの良きサマリヤ人とは、まず第一に、主イエスのことを表しているのです。主イエスは、デナリ2つどころではない、ご自分のいのちを投げ出して私たちを救ってくださったのです。それが十字架です。
3.あわれみ深い者へ
 この主イエスのあわれみを経験するとき、私たちは、主イエスのあわれみをいただいて、あわれみに生きる者へと変えられるのです。そして、あわれみに生きるとき、「あわれみを受ける」とあるように、逆に、その人がもっとたくさんのあわれみをいただくという恵みにあずかるのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年02月18日

「義に飢えかわいている人」

マタイ5:6 島津吉成師
 主イエスは、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」と言われました。
1.神さまとの正しい関係を求める
(1)「義」とは、「まっすぐ」という意味です。ですから、「義に飢えかわく」とは、神さまとのまっすぐな、正しい関係を持つことを求めるということです。アダムとエバが罪を犯してしまったとき、神さまから隠れました。罪があると、神さまとのまっすぐな関係を持つことができません。神さまとの正しい関係を持つことができないと、本当に幸せな生活を築くことはできないのです。
(2)主イエスはすべての人の罪を負って十字架かかり、すべての人の罪が赦される道を開いてくださいました。罪を悔い改めて、主イエスを信じるとき、神さまはその人の罪を赦してくださいます。こうして、神さまとの正しい関係を回復させてくださるのです。そのとき、その人の心に、喜びと平安が与えられます。「このような人こそ、さいわいな人だ」と、主イエスは言われるのです。
2.神さまを信頼して歩む
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)と、主イエスは言われました。私たちは、様々なことで思い煩います。しかしその中で、神さまは必要なものを与えてくださるという信仰に立って、神さまを信頼して歩むのです。義に飢えかわくとは、神さまのみを信頼して、その神さまに求めて生きるということです。そのとき、必要なものは、すべて添えて与えられるという恵みを経験していくことができるのです。
3.神の正義が実現することを求める
 私たちは、主の祈りの中で「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。しかし、なかなか神さまのみこころが実現しない現実があります。世界中で争いが絶えません。そのような中で、神さまの正義と愛と平和がこの地に早く実現しますようにと祈り、労する、ここに義に飢えかわいている人の姿があります。
 主イエスは、「飽き足りるようになる」と約束してくださいました。主イエスは、再びおいでくださり、神の国を完成し、お約束を成就してくださいます。ですから私たちは、希望を失うことなく、神の正義と愛と平和が少しでも実現していくために、祈り、労していきましょう。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年02月11日

「ひとりを見つけるまで」

ルカ15:1〜7 島津吉成師
 イエスさまがこんなお話をしてくださいました。100匹の羊を飼っている人がいました。その中の一匹がいなくなってしまいました。すると羊飼いは、いなくなった一匹の羊が見つかるまで捜し歩きます。そして、見つかったら大喜びをして帰ってくるというのです。
1.いなくなった羊
ここで羊と言われているのは、私たち人間のことです。羊は自分を守るための牙や角がありません。また近眼で遠くを見ることができないそうです。しかも、聖書の舞台となっている地域は水も牧草も乏しい所です。ですから、群れから迷い出てしまったら、羊は生きていくことができません。
そのように、人間は、神さまから離れてしまうと生きていけない存在なのです。「神さまを信じなくても、生きていける」と思う方がおられるかもしれませんが、実は、神さまから離れていると、魂が渇いてしまうのです。イキイキと生きる、そのいのちが失われてしまうのです。「我々はどこから来て、今どこにいて、これからどこに行くのか」、これは神から離れてしまった人間の魂の叫びです。
2.見つけるまで捜す羊飼い
羊は迷子になってしまっているので、自分の力で帰ることができません。その羊を捜すために、羊飼いの方が出かけるのです。この羊飼いこそ、父なる神さまであり、イエスさまなのです。神さまから離れて迷子になり、命の危険がある人々を救うために、父なる神さまはひとり子のイエスさまを遣わしてくださいました。クリスマスの夜、幼子が飼い葉おけの中に寝ておられる、それが救い主のしるしだと御使いは伝えました。それは、どんな人の所にも降りて来てくださってその人を救ってくださる、その救い主のしるしです。こうしてイエスさまは、私たち一人ひとりのところにまで来てくださったのです。
3.一人の人を求めて
羊飼いは99匹の羊を野原に残して、いなくなった一匹の羊を捜しに出かけました。「残された99匹はどうなるの?」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ここでイエスさまが伝えたいことは、一匹が大事だ、一人の人が大切なのだ、ということです。私たちも、一人の人が救われるために、みんなで祈り、労し、イエスさまのところにお連れしましょう。一人の人が救われるとき、天では大きな喜びがわき起こるのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年02月04日

「柔和な人」

マタイ5:5 島津吉成師
「さいわいである」と言われている3番目の人は、「柔和な人」です。
1.柔和な人が、地を受けつぐ
(1)柔和とは 
柔和という言葉を手元の辞書で引くと、「優しくて、穏やかな様子」とありました。私たちは、力の強い人が地を受け継ぐと思いますが、聖書は、優しくて、穏やかな人が地を受け継ぐというのです。また、柔和と訳されている聖書の言葉は、「中庸」という意味の言葉だそうです。これも辞書で引くと「どちらにもかたよらず、中正なこと」とありました。片寄らず、中正(公正)に物事を判断する人が、聖書がいう柔和な人なのです。
(2)柔和な人、モーセ
モーセについて聖書はこう言っています。「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民12:3)。モーセは、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へと導きます。そこには様々な困難がありました。非難されることもありました。しかしモーセは、忍耐強く、民を導き続けました。叱るときには叱り、赦すときには赦しました。ですから、柔和な人とは、決して、弱々しい人のことではありません。片寄らず、公正に物事を判断し、怒りを爆発させないで、忍耐強く物事を進めて行く人、ということができるでしょう。こういう人が、地を受け継ぐというのです。
(3)心と言葉
 さらに、柔和について、聖書はこう言っています。「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」(箴言14:30 新改訳)。「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす」(箴言15:1)。
柔和であることは、自分の心と体を健やかにし、人との関係も平和な関係にしていくのです。
2.主イエスに学ぶ
主イエスは、こう言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28〜30)。
主イエスの歩くリズムに合わせて主イエスと一緒に歩むとき、私たちもまた、柔和に生きることができるようになっていくのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記