2018年03月25日

「十字架を負って主に従う」

マタイ16:21〜28 島津吉成師
 本日から受難週に入ります。今週の金曜日が、主イエスが十字架におかかりになった日となります。
1.受難の予告
主イエスは弟子たちに、「自分は必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえるべきことを」伝えられました。なぜ、主イエスは、「多くの苦しみを受け、殺され」なければならなかったのでしょうか。
マタイ20章28節にはこう書かれています。「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。主イエスは、罪と死の奴隷となっている人間を解放するために、ご自分の命を贖いの代価として差し出してくださったのです。それが主イエスの十字架だったのです。
2.サタンよ、引きさがれ
ペテロはこれを聞いて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言って、主イエスをいさめました。すると、主イエスは「サタンよ、引きさがれ」と言われたのです。ペテロは、救い主が死ぬなんてありえない、と思ったのでしょう。しかし、ここに、ペテロたちが考えていた救い主についての誤解がありました。彼らは、人間的な目で見て、物事を良い形で解決してくださるのが救い主だと思っていたのです。このような救い主の道を選ぶということは、主イエスへのサタンの誘惑でした。ですから主イエスは、「サタンよ、引きさがれ」と言われたのです。主イエスは、人からの評判が良くなる道ではなく、父なる神さまの御心の道を選ぶところに本当の道があるということを示されたのです。こうして、主イエスは十字架への道を歩み抜いてくださったのです。
3.自分の十字架を負って
それから、主イエスは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。
ここに、主イエスの弟子となった者の姿があります。「自分の十字架」とは、父なる神さまがその人にゆだねてくださった「使命」ということです。その使命を負って、主イエスのあとについて行くのです。主イエスが私たちの前を歩いて導いてくださいます。ですから、安心して、喜びをもって使命を果たしていくことができるのです。
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2018年03月18日

「平和をつくり出す人」

マタイ5:9 島津吉成師
 主イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われました。
1.神との平和
「平和をつくり出す人」とは、どんな人のことでしょうか。まず、その人の心が平和(平安)である、ということから始まるのだと思います。自分の心が平和(平安)でなければ、周りを平和にしていくことはできないでしょう。
では、どうしたら私たちは平和(平安)な心を持つことができるのでしょうか。人間は、罪を犯してしまったため、神さまとの関係が断絶してしまいました。神さまと平和な関係を持つことができなくなってしまったのです。そのため、私たちの心から「平安」がなくなってしまいました。そればかりか、憎しみや争いが生じ、人と人との関係も壊れてしまったのです。そのような私たちを救ってくださるために、主イエスが来てくださったのです。そして、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちは、この主イエス・キリストの十字架が私の罪のためであったと信じ、罪を悔い改めるとき、父なる神さまは私たちの罪を赦し、私たちの心をきよめてくださいます。こうして、私たちは神さまとの平和な関係を持つことができるようにしていただいたのです。ローマ5章1節は、このことをこう記しています。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。こうして神さまとの平和な関係の中に入れていただくとき、私たちの心に「平安」がやってくるのです。
2.平和をつくり出す人
こうして、神さまとの間に平和をいただいた人たちは、今度は周りに平和をつくり出す人になっていきます。
フランチェスコの「平和の祈り」として伝えられている祈りの言葉にあるように、「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみあるところに、愛をもたらすことができますように」と、私たちも祈り、願い、労していきたいと思います。
しかし、平和をつくり出すというのは、何と難しいことでしょう。せっかく築いてきたのに、それがもろくも崩れ去ってしまうという現実に、私たちはしばしば直面します。そこには、諦めとの戦いがあります。この諦めとの戦いに勝利する武器こそ、祈りです。平和をつくり出す人は、祈る人です。神さまは、平和を求める祈りに必ず応えてくださいます。
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2018年03月11日

「驚くばかりの恵み」

哀歌3:22〜24 ヨハネ3:16 島津吉成師
1.哀歌3:22〜24
イスラエルのユダ王国の滅亡を目の当たりにして、エレミヤは嘆き、悲しみ、叫びました。冒頭に「ああ」という嘆きの言葉がありますが、そこから「哀歌」と呼ばれるようになったようです。
しかし、この絶望のどん底の中から、希望の歌が歌われるのです。それが3章22〜24節です。エレミヤが目を天に向け、主の慈しみ、主の憐れみによりすがったのです。新共同訳では、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」と訳されています。私たちも、この信仰に立たせていただきましょう。
しかし、残念なことに、この信仰が揺らぐ時があるのではないでしょうか。それは、主が十字架にかかってくださるほどに私を憐み、救ってくださったという主の真実を見失うからではないでしょうか。
2.ヨハネ3:16
そこで、もうひとつのみ言葉に目を留めましょう。ヨハネ3章16節です。
(1)福音のミニチュア
 宗教改革者ルターは、このみ言葉を「福音のミニチュア」と表現しました。いくらでも大きく描くことができる真理を、できるだけ小さな言葉に凝縮させて表現したのがこのみ言葉です。ルターは、このみ言葉を暗唱するように勧めています。また、毎日、このみ言葉を自分に向かって語りかけるように勧めています。それは、私たちが信仰によってのみ救われるという事実を、日毎に新たにするためです。
(2)ひとりも滅びないで
 「滅びる」と訳されている言葉が、ルカ15章では「いなくなった」と訳されています。羊飼いのもとからいなくなった一匹の羊、持ち主のもとからなくなった一枚の銀貨、父親のもとからいなくなった息子、この「いなくなる」ということが「滅びる」ということなのです。父なる神さまは、そのようにご自分の手もとから私たちを失いたくないとお思いになって、ひとり子のイエスさまを遣わしてくださり、私たちを呼び戻そうとしてくださったのです。ですから、「永遠のいのち」とは、この父なる神さまのふところに抱かれて生きることなのです。
(3)毎日の悔い改め
 神様のもとに帰るということが、悔い改めるということです。毎日、神さまのもとに帰る、そこに新しいいのちに生きる歩みがあります。
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2018年03月04日

「心の清い人」

マタイ5:8 島津吉成師
 主イエスは、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」と言われました。
1.神さまを見えなくしてしまうもの
アダムとエアが、神さまから食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったとき、彼らは神さまから身を隠しました。まっすぐに神さまを見ることができなくなってしまったのです。このように、私たちの心に罪が入ってくるとき、私たちは神さまをまっすぐに見ることができなくなってしまうのです。

2.どうしたら心を清くすることができるのか
では、どうしたら心を清くすることができるのでしょうか。
@修行する。努力することは大事なことですが、自分の力で心を清くすることはできません。
Aお祓いをする。罪はホコリとは違うので、お祓いをしても罪を取り除くことはできません。
B犠牲をささげる。動物などを犠牲としてささげても、それを人間の代わりにすることはできません。
Cイエス・キリストの十字架の贖いを信じる。
人間の力では、心を清くすることができません。そこで神さまの方から手を差し伸べてくださいました。罪を犯したことのない、神のひとり子であるイエスさまが人となって来てくださり、すべての人の罪を負って十字架にかかり、すべての人に代わって罰を受けてくださったのです。こうして、私たちを罪の中から救ってくださったのです。私たちが罪を悔い改めて、イエスさまの十字架の恵みを信じるとき、父なる神さまは私たちの罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめてくださいます(Tヨハネ1:9)。

3.神を見る
イエスさまの十字架の恵みによって、私たちの罪が赦され、心を清めていただくとき、私たちは父なる神さまに対してまっすぐに顔を向けることができるようにしていただけます。そして、父なる神さまと共に光の中を歩み続けることができるのです。「このような恵みの中に生きる人こそ、さいわいだ」と、イエスさまは言われたのです。
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