2018年05月27日

「怒りを捨てて」

マタイ5:21〜26 島津吉成師
 主イエスは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイ5:20)と言われました。21節以下には、この「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」の具体的な内容について記されています。
1.殺すな
「殺すな」というのは、モーセの十戒の6番目の戒めです。主イエスはこの戒めを取りあげ、「しかし、わたしはあなたがたに言う」と言われて、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」を示されたのです。
主イエスは、兄弟に対して「怒る者は裁判にかけられ」、「愚か者と言う者は議会に引きわたされ」、「ばか者と言う者は地獄の火に投げ込まれる」と言われます。「ばか者」と訳されている言葉は、「神に捨てられた者」という意味で、その人を呪う言葉だそうです。心の中の怒りが爆発して「愚か者」という言葉となり、ついにはその人を呪うところまで行ってしまうのです。実際に人を殺すという行為に至っていなかったとしても、心の中に怒りをため込み、それが言葉や態度となって表されるとき、それは殺人と同じだと、主イエスは言われるのです。
2.和解の勧め
祭壇に供え物をささげようとするとき、兄弟が自分に対してうらみをいだいていることを思い出したら、まず行ってその兄弟と和解しなさい、と主イエスは言われます。「殺すな」という教えに対して、主イエスは、「和解せよ」言われるのです。これが「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」に生きる者の姿です。
主イエスは、「まず行って」と言われます。相手を変えようとしてもなかなか人を変えることはできません。まず、自分が変わることから和解は始まるのです。
3.早く
主イエスは、「早く仲直りしなさい」と言われます。この地上での生涯はあっというまに過ぎていきます。ですから手遅れにならないうちに、早く仲直りしなさい、と言われているのです。
ここに登場する「裁判官」とは、神さまのことです。神さまの前で、私たちの罪が問われるときが来るのです。しかし、主イエスはその私たちの罪を十字架によって贖ってくださいました。こうして私たちが、神と和解し、隣人と和解して生きる道を開いてくださったのです。
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2018年05月20日

「聖霊により新たにされて」

テトス3:1〜7 島津吉成師
 本日は、弟子たちに聖霊が降った記念の日です。主イエスが天に帰られた後、祈っていた弟子たちに聖霊が注がれました。そのとき、彼らは新しい力をいただいて、主イエスこそ救い主であることを大胆に語りだしたのです。
聖霊は、「別の助け主」(ヨハネ14:16)と言われているように、天に帰られた主イエスに代わって、いつも私たちと共にいて私たちを助けてくださるお方です。
1.洗礼の時の聖霊の働き
「再生の洗い」(5)とは、洗礼のことです。聖霊はここに働いて、その人を新たにしてくださるのです。洗礼は、@十字架にかかって死なれたキリストと共に、古い私が死ぬことです。A死を打ち破ってよみがえられたキリストと共に、新しい私が誕生することです。聖霊は、このことをその人に実現してくださるのです。こうして、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Uコリント5:17)と語られていることが、その人の中に実現するのです。
2.信仰生活の中での聖霊の働き
@キリストの恵みによって義とされ
キリストが私たちの汚れた罪の衣を引き受けてくださいました。そして、キリストの義(真っ白な衣)を私たちに与えてくださいました。これを恵みの交換と言います。こうして、私たちは罪を赦され、神の前に立つことができるようにしてくださったのです。聖霊は、このことを私たちの中に成し遂げ、確かなものとしてつかませてくださるのです。
A永遠のいのちの希望に生きる
キリストは死を打ち破ってよみがえられました。そして、このいのちを私たちに与えてくださるのです。ですから、死はすべての終わりではなくなりました。私たちは永遠のいのちに生かされて、天国への希望を持って生きることができるのです。聖霊は、このことを私たちにつかませてくださるのです。
B聖霊の豊かな注ぎの中で歩むことができる
聖霊は、私たちの上に豊かに注がれています。ギリギリではなく、豊かに、です。聖霊は、聖書のみ言葉と共に働かれます。み言葉を確かなものとして、私たちにつかませてくださるのです。そして、み言葉に従って生きる力を与えてくださるのです。
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2018年05月13日

「母から子へ」

テモテ第二1:3〜7 島津吉成師
 本日は、「母の日」ですね。そこで、祖母ロイスと母ユニケ、そして、子であるテモテについて学びたいと思いました。パウロが第一次伝道旅行でルステラに行って伝道したとき、ロイスとユニケが信仰に導かれたようです(使徒14章)。そして第二次伝道旅行でパウロが再びルステラに行ったとき、そこでテモテに会い、彼を伝道チームのメンバーに招き入れました(使徒16:1)。それ以来、テモテはパウロを支える忠実な伝道者になりました。テモテ第二の手紙が書かれたとき、テモテはエペソ教会の牧師になっていたようです。パウロがこの手紙を書いた目的の一つは、困難な状況の中で伝道しているテモテを励ますことでした。。
1.偽りのない信仰
信仰は、何でも信じればよいということではありません。聖書が伝えている正しい信仰を持つということが、大切です。
@神さまは、全世界を創造され、そして私たち人間をかけがえのない者として造ってくださいました。ですから、どんな人にも、造られた目的、尊い使命があるのです。
A主イエスは、神さまから離れてしまった私たち人間を罪の中から救い出してくださいました。そして、主イエスはどんなときにも私たちと共にいて、私たちを支え、助けてくださいます。
人生には、何のために生まれてきたのだろうかと悩んだり、困難な問題に直面して心が折れそうになってしまうこともあります。「偽りのない信仰」は、そのようなときにその人を支えます。偽りのない信仰こそ、人が本当の意味で幸せな人生を歩む土台です。
2.この信仰が「宿る」ために
信仰が、単なる知識としてではなく、その人の中に「宿る」ということが大切です。宿るために、どのようなことが必要でしょうか。
@テモテは、母ユニケから、幼い時から聖書に親しむように育てられました(Uテモテ3:15)。「幼い時から」というのが大事です。聖書には、人を神さまに喜ばれる人へと造り上げていく力があるのです。
A祈り。パウロは、一人ひとりのために涙を流して祈る人でした(使徒20:19、31)。母ユニケもテモテのために祈ったと思います。母の祈りです。この祈りを通して神さまが働いてくださり、テモテの中に信仰を宿らせてくださったのです。こうしてテモテも、涙を流して人々の救いのために祈る人となったのです(Uテモテ1:4)。
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2018年05月06日

「志は高く」

マタイ5:17〜20 島津吉成師
 主イエスは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなけれな、決して天国に、はいることはできない」と言われました。「パリサイ人の義にまさる義を求める」ということで、本日の説教題は、「志は高く」といたしました。それにしても、「パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と言われると、とてもハードルが高いように感じてしまいます。では、パリサイ人の義にまさる義とは、どういうことでしょうか。
1.パリサイ人の祈りと取税人の祈り
「義」とは、「神さまとの正しい関係」という意味です。では、パリサイ人はどのようにして神さまとの正しい関係を持とうとしたのでしょうか。
ルカ18:9〜14には、パリサイ人の祈りと取税人の祈りが対比されて記されています。ここでパリサイ人は、「わたしは1週に2度断食しており、全収入の10分の1をささげています」と祈っています。パリサイ人は律法をしっかりと守ることによって、神さまとの正しい関係を持とうとしたわけです。しかし、彼の心の中にあったものは、自分を誇る思いと他者を見下げる心でした。
これに対して取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました。そして、主イエスは言われたのです。「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」。取税人は、自分が罪人であると自覚し、目を天に向けることもできず、胸を打ちながら悔い改めの祈りをささげました。神さまは、このような「砕けた悔いた心」(詩51:17)を受け入れてくださるのです。
2.パリサイ人の義にまさる義
パリサイ人は、自分は律法を守っていると思っていましたが、律法を完全に守ることができる人はいません。律法は、自分の罪に気づかせ、そして主イエスの十字架へと導くものなのです。こうして私たちは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ3:22)へと至るのです。私たちは律法の行いによって義とされるのではなく、キリストを信じることによってキリストの義の衣を着せていただくのです。これこそが、パリサイ人の義にまさる義です。こうして私たちは、喜びと感謝をもって心から神を愛し隣人を愛する歩みを始めていくことができるのです。パリサイ人の義は外側を飾るものでした。これに対して、主イエスが与えてくださるのは、内側からの溢れる喜びです。
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