2018年06月24日

「真実な言葉」

マタイ5:33〜37 島津吉成師
 ここでは、「誓う」という言葉の問題が取り上げられています。
1.いつわり誓うな
旧約聖書でも、「わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない」(レビ19:12)と言われています。裁判のとき、証人に立てられた人は嘘をつかないことを誓いますね。誓ったことは、誠実に果たすことが求められているのです。
2.いっさい誓ってはならない
ところが、主イエスは言われるのです。「いっさい誓ってはならない」。これは、どういうことでしょうか。
(1)人間には誓いを果たす力がない
 「天をさして、地をさして、エルサレムをさして、誓うな」と言われています。十戒では、「神の名をみだりに唱えてはならない」と戒められていました。ですから、直接、神をさして誓うことができなかったので、当時の人々は、天や地やエルサレムをさして誓う、ということをしていたのです。また、「自分の頭をさして誓うな」と言われています。「自分の頭をさして誓う」とは、「自分の真実にかけて誓う」ということです。でも主イエスは、「あなたは髪の毛1すじさえ、白くも黒くもすることはできない」と言われました。「髪の毛の1本も自分の自由にはできないだろう。そのあなたが、どこをさして誓ったとしても、その誓いを自分の力で完全に果たすことはできないではないか」と言われたのです。自分の考えを、「神にかけて」と権威づけて主張する前に、まず、謙虚であることが大切です。
(2)神の真実に支えられて
 主イエスは、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ」と言われました。これは、神さまが「しかり」と言われることに対しては「しかり」と答え、神さまが「否」と言われることに対しては、「否」と言いなさい、ということです。ですから、「いっさい誓うな」とは、自分の力で、また自分の思いで誓うことを禁じておられるのです。結婚式や洗礼式でも、誓約のときがあります。それは、神さまの導きに従って「はい」と言うのです。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(Uテモテ2:13)。私たちは、それでも誓ったことがぐらついてしまう弱さがあります。しかし、神の真実が支えてくださるのです。この神の真実に支えられて、私たちもまた、自分の言葉に誠実に生きることができるのです。
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2018年06月17日

「父と母を敬え」

出エジプト20:12 島津吉成師
 十戒の5番目に「あなたの父と母を敬え」と教えられています。今日は「父の日」ですが、親と子について聖書の語りかけを聞きましょう。
1.なぜ、父と母を敬うのか
十戒は、最初の4つは神さまとの関係について教えられていて、6番目からは人間関係についてのことが教えられています。その橋渡しをしているのが真ん中にある「父と母を敬え」の教えです。つまり、父と母は子どもたちに神さまのことを教え、子どもたちが神さまの教えに従って生きる者となるように育てる責任が神さまから託されているのです。そこで、神さまの代理人である父と母を敬いなさい、と教えられているのです。
2.育てる
では、親は子供たちをどのように育てたら良いのでしょうか。エペソ6章4節には、こう記されています。「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい」。
(1)おこらせない
 叱るときは叱らなければならないのですが、そのとき、子どもを怒らせるような叱り方をしてはいけない、というのです。どんなとき、子どもは怒るでしょうか。ロイドジョンズという牧師は、こんな点をあげています。
@親が感情的になって子どもを叱るとき。
A親の叱り方が気まぐれで、一貫性がないとき。
B子どもの言うことを聞こうとせず、頭ごなしに叱るとき。
C親が子どもを自分の所有物のように扱い、自分の考えを押し付けるとき。
D処罰が厳しすぎるとき。
E子どもの成長、発達を認めないとき。
(2)主の薫陶と訓戒とによって
 薫陶は、人格的な感化を与えて育てるという面が強く、訓戒は、言葉で教え諭すという面が強いように思います。「人格的な感化」というと、尻込みしてしまいたくなりますが、欠けもあれば、失敗することもある、でもその中で、主を愛して、主に従っていこうという姿勢が大事なのではないでしょうか。
ロイドジョンズは、「この人生で、キリスト者であるということに匹敵するほど素晴らしいことは何もない、ということが子どもたちに伝わるようにしよう」と勧めています。キリスト者として生きることは、素晴らしいんだ、楽しいんだ、ということを子どもたちに手渡していきましょう。
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2018年06月10日

「すこやかに生きるために」

マタイ5:27〜32 島津吉成師
 主イエスが言われた、律法学者やパリサイ人の生き方にまさる生き方の2つ目は、「姦淫」についてでした。
1.姦淫するな
「姦淫」とは、結婚している夫または妻が、別の人と性的な関係を持つことです。モーセの十戒の第7番目に、「姦淫してはならない」と記されています。
主イエスは、このことを取りあげてこう言われました。「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。主イエスは、ここでも、罪は行動に出る前に、すでに心の中で始まっているのだと言われます。
ただし、ここで、主イエスは性的な欲を否定しているのではありません。創世記には、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(1:28)と記されています。主イエスが最初に行われた奇跡は、婚礼の席でのことでした。聖書は、性欲を汚れたものとは見ていません。
ここで、「情欲をいだいて女を見る者」とは、結婚している女性を、その結婚生活の中に割り込んでいって、その人を自分のものとしたいと思うことです。また、まだ結婚していない人であったとしても、その人を自分のものとしたいと思うこと、つまり、人を自分の情欲を満たす対象物のように見ることが言われているのです。主イエスは、「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」と言われました。罪の誘惑からは、断固として離れなさい、と言われたのです。
2.離婚について
当時は女性の立場が弱く、些細な理由でも、離縁状を渡せば妻を出すことができる、とされていました。これに対して主イエスは、「不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである」と言われました。これは、不品行ならば離婚してもよいということを言われたのではなく、簡単に離婚してはいけない、ということを言われたのです。結婚の関係は、自分勝手に切ることはできないものなので、追い出した妻が別の男性と結ばれたら、それは姦淫を行わせることになってしまうのだ、と主は言われるのです。
様々な理由で、離婚せざるを得なくなるということも起きてきます。また、私たちは心の中で、罪を犯してしまうこともあります。十字架の主を仰ぎましょう。そこに、赦しと癒しときよめ主でいてくださるお方がおられます。主は、私たちがすこやかに生きることができるようにしてくださるのです。
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2018年06月03日

「わがたましいよ、主をほめよ」

詩篇103:1〜5 島津吉成師
 詩篇103篇2節には、「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ」と言われています。この2節を別の翻訳の聖書では、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と訳されています。私たちは、せっかく神さまが与えてくださった恵みを忘れてしまうことが、なんと多いことでしょう。そして、足りないものだけを数えて、不平を言ったり、つぶやいてしまったりしがちです。今朝は、神さまが与えてくださった恵みを数えて、心から主を賛美いたしましょう。
1.すべての不義をゆるし
主が与えてくださる恵みということで、まず言われているのが、「不義のゆるし」です。神さまは、主イエス・キリストの十字架のゆえに、私たちのすべての罪を赦してくださいました。罪が赦されたということは、神さまとの交わりが回復されたということです。私たちは、神さまという確かな土台の上に立つことができるようにしていただいたのです。
2.病をいやし、いのちを墓からあがないいだし
主は、御心であれば病からも私たちを癒してくださいます。また、「墓からあがないいだし」とは、いのちの危険から守ってくださった、ということです。主は癒し主です。この主をほめたたえましょう。
3.良き物をもってあなたを飽き足らせ
主は、「生きながらえるかぎり、良き物をもって飽き足らせ」てくださるお方です。ここで「良き物」と言われているのは、ローマ8章28節で「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と言われている「益」ということと結びつく言葉だと思います。ここで言われている「益」とは、自分にとっての「利益」ということではなく、私たちがキリストに似たものとなっていくために、「益」となるということです。ですから、自分にとってマイナスと見えることの中にも神さまは働いていてくださり、それをも用いて、私たちがキリストに似たものへと造っていってくださるのです。マイナスと見えることも「益」としてくださるのです。このように神さまはすべての中に働いておられるので、私たちの一生は、良き物で満ちているのです。このような恵みを与えてくださる主がおられるので、私たちは「若返って、わしのように新たに」していただいて、歩み続けることができるのです。
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