2018年07月29日

「われらの父よ」

マタイ6:9 島津吉成師
 主イエスは、誰に、何を、どう祈ったらよいのかを教えてくださいました。それが、主の祈りです。まず、呼びかけの言葉から始まります。ここに私たちの祈りを聞いてくださるお方がどのようなお方なのかということが言い表されています。
1.父よ
主イエスは、ご自分でも祈るときに、「アバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。アバとは、子どもがお父さんを親しみを込めて呼ぶときに使われた言葉だと言われています。主イエスは、子どもがお父さんを呼ぶように、神さまを呼んだら良いのだと言われたのです。
「でも、私は父親に良いイメージを持っていません」という方がおられるかもしれません。そこで大事なことは、自分の父親のイメージを神さまに当てはめるのではないということです。聖書が父についてどう言っているのか、それを知ることが大切です。主イエスが語られた「放蕩息子の父親」は、息子を愛し抜き、赦し、再び立ち直らせてくださいました。主イエスは、私たちの祈りを聞いてくださる父なる神はこのようなお方だと教えてくださったのです。
2.天にいます
「天にいます」とは、「天において、すべてを治めておられる」という意味です。神さまは、天と地のすべてを創造し、すべてを治めておられる全能のお方です。父なる神さまは、私たちを愛し、私たちの小さな祈りにも耳を傾けてくださるお方です。だから、どんなことでも祈ることができるのです。それと共に、神さまは、天にいまし、すべてを治めておられるお方です。ですから、私たちは、このお方を畏れ、敬い、信頼し、従うという心をもって祈ることが大事です。主イエスは、ゲツセマネの園で祈られました。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。ここに、まさに「天にいます父」に向けた祈りの姿があります。
3.われらの
主の祈りは、孤独な祈りではありません。「われらの」と言って、共に神を呼ぶのです。こうして、私たちの信仰は強められます。神の前に、共に頭を垂れるのです。こうして、謙遜な兄弟姉妹の交わりがつくられていきます。ここに、父なる神を中心とした教会が造られていくのです。
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2018年07月22日

「隠れた祈り」

マタイ6:5〜8 島津吉成師
1.隠れた所においでになるあなたの父に
(1)人に見せようとして
主イエスは、「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(5)と言われました。当時の人々は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣としていたそうです。「あの人は敬虔な人だ」と見られたいために、わざわざその時間に合わせて、大通りに出て行って祈るといったことがあったようです。彼らの目は、神さまにではなく人に向いていたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。人に聞かせるための祈りになってしまっていないでしょうか。
(2)隠れた所においでになるあなたの父に
 それに対して主イエスは言われました。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(6)。「自分の部屋などないです」、という方もおられると思います。ここで主イエスがおっしゃりたいことは、「人を意識するのは止めなさい。祈りは父なる神さまに祈るもの。そこに集中しなさい」ということです。台所でも良いのです。通勤電車の中でもいいのです。そこで、父なる神さまに心を向けて祈るのです。すると、そこがあなたの密室となります。そこで捧げる祈りを、父なる神は聞いてくださるのです。
2.信頼して祈る
主イエスは、「くどくどと祈るな」(7)と言われました。これは、長く祈ることを戒められたのではありません。主イエスは、徹夜で祈られたことがあり(ルカ6:12)、ゲツセマネの園では、3度、同じ言葉で祈られました。主イエスは、「ただ言葉を重ねるのではなく、父なる神を信じて、信頼して祈ることが大事だ」と言われたのです。
そこで、さらにこう言われました。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(8)。「それならば、祈らなくてもいいのか」と思われる方がおられるかもしれませんが、それは逆なのです。もし子どもが、父親は知っていてくれるからといって、何も話さないとしたら、その親子関係はおかしいですね。知っていてくださるからこそ、信頼して、大胆に祈ることができるのです。このようにして主イエスは、私たちを祈りへと招いてくださっているのです。
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2018年07月15日

「隠れた施し」

マタイ6:1〜4 島津吉成師
 マタイ6章1〜18節では、新しいテーマに移ります。当時、人々は自分が神さまの前に正しい生活をしている表れとして、@施し、A祈り、B断食をすることが大事なこととされていました。主イエスは、この3つを取り上げて、この3つの本来のあり方について教えてくださいました。まず、施しについて、教えられています。
1.施しをする時には
主イエスは、「施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな」と言われました。人々に、自分がいかにも信心深いように思わせるために、自分がする施しを吹聴するな、と言われたのです。
また主イエスは、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われました。これは、自分の中で、自分自身に、「俺はこんなにすごいことをやっているのだぞ」と語りかけて、自分で自分を誇るようなことをするな、ということです。
2.隠れたことを見ておられる神
主イエスは、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言われました。「父なる神は、誰も気がつかなくても、隠れたところでなされる良きことを、ちゃんと見ていてくださるお方だ」と、主イエスは言われるのです。
私たちは、人の目を気にします。人が自分をどう見ているかが気になります。そして、人からよく評価されたいと思うのです。ですから、自分が良いことをしたら、それを吹聴したくなるのです。また、私たちは、自分で自分のことを見つめる目を持っています。少しでも良いことができれば自慢したくなりますし、ダメな時は、自分で自分を裁いて落ち込んでしまいます。隠れた事を見ていてくださる神がおられるということがわかるとき、人の目や、自分の目から解放されます。そして、人の評価に左右されるのではなく、神の前に、精一杯生きるという生き方ができるようになるのです。
3.豊かに施してくださる神
「神が報いてくださる」と言われています。これは、良いことをしたから与えられるという報酬ではありません。神さまからの恵みのプレゼントです。そして、父なる神からの最大のプレゼントが主イエス・キリストです。父なる神が与えてくださる豊かな恵みの中で、私たちも、施し(慈しみ)に生きることができるのです。
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2018年07月08日

「復讐心の克服」

マタイ5:43〜48 島津吉成師
1.隣り人を愛し、敵を憎め
「隣り人を愛し、敵を憎め」というのが、当時の人々の考え方でした。レビ記19章18節には「あなた自身のようにあなたの隣り人を愛さなければならない」と教えられています。でも、ここには「敵を憎め」とは書かれていません。どうも、これは後から人々が付け加えたのではないかと思われます。でも、これは、当時の人々だけではなく、今も、私たちの中にある常識的な考え方ではないかと思います。
2.敵を愛し、迫害する者のために祈れ
ところが、イエスさま言われるのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と。そして、「天の父なる神さまは、悪い人の上にも良い人の上にも、太陽をのぼらせ、また雨を降らせてくださるではないか」と言われます。愛する者を愛す、これは誰でもすること、イエスさまの弟子たちは、さらに一歩進んで、敵を愛す、この愛に生きるのだと言われるのです。
3.天の父が完全であられるように
そこで、イエスさまは言われます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。天の父なる神さまが、分け隔てなく愛を注いでくださるように、あなたがたもそのような愛に生きる者となりなさい、と言われるのです。でも、欠けだらけの私たちが、どうして完全な者(父なる神さまのように敵をも愛する者)となることができるのでしょうか。
@神さまの愛に完全に浸りきる。父なる神さまが、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽をのぼらせてくださるということを聞くとき、私たちは自分を良い者と思い、自分と難しい関係になっている人を悪い者と重ね合わせて読んでしまいがちです。しかし、「私こそ、悪い者だった。神さまに敵対する者だった。『敵を愛する』とは、そんな私のことを神さまは愛してくださっているということなのだ」ということに気づくとき、私たちは変えられます。この神さまの愛を完全に受け入れ、浸りきるのです。
A敵であった私のことを神さまが愛してくださったということを知るとき、私たちも、神さまの愛をいただいて、敵をも愛する方向へと導かれていきます。それは。挨拶をする、というような小さなところから始まります。また、祈るとき、そこに神さまが働いてくださいます。祈りは相手を変え、何よりも、祈りの中で私たち自身が変えられていくのです。
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2018年07月01日

「復讐心の克服」

マタイ5:38〜42 島津吉成師
1.目には目を
「目には目を、歯には歯を」というのは、旧約聖書の時代から行われていたことでした(レビ24:20)。これは、目をやられたら、目も鼻もやり返したい、というふうになりがちなことに対して、「目をやられたら、反撃は目だけですよ」という教えで、復讐がエスカレートしていくのを防ぐ戒めです。
2.イエスさまの教え
ところが、イエスさまは言われるのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」、「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」、「あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」。
「イエスさま、ちょっと待ってください。そんなことできません。そんなことをしたら、悪い人が好き勝手なことをやってしまって、社会が混乱し、国は滅んでしまうではないですか」と言いたくなりますね。イエスさまは、十字架につけられる前の裁判のとき、イエスさまを平手で打った人に対して、「(わたしが)正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)と言われました。イエスさまは、不正を許すことはありませんでした。
イエスさまがここで教えてくださっていることは、「復讐心を捨てなさい」ということなのです。侮辱されたり嫌なことをされると、その人に復讐したいという思いが湧きます。そして、それは自分の心の中でどんどんエスカレートしていきがちです。復讐心を持ちながら生きるということは、その人自身が一番苦しむことです。イエスさまは、そこから解き放たれる道を示してくださったのです。
3.復讐心の克服
@神さまにゆだねる。神さまが正しい決着をつけてくださる(ローマ12:19)。
A「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」(ローマ12:20)。イエスさまは、ほかの頬を向けることも、上着を与えることも、2マイル行くことも、このことを言っておられるのです。「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになる」からです。
Bイエスさまは、頬を打たれ、着物をはぎ取られ、十字架につけられました。しかし、イエスさまは、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。このイエスさまの愛によって、私たちは救われ、変えられるのです。
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