2018年11月25日

「ここに愛がある

ヨハネ第一4:7〜10 島津吉成師
愛の手紙と呼ばれる、このヨハネの手紙を書いたヨハネは、かつては「雷の子」と呼ばれた人物でした。その彼が、愛の人に変えられたのです。
1.人間の悲惨
ハイデルベルク信仰問答をわかりやすく記した、「ハイデルベルク信仰問答によるキリスト教の信仰の学び」という本があります。この本の「人間の悲惨について」の箇所で、人間の罪の現実がこう記されています。「わたしの本性は、わたしに隣人を愛さないで憎むようにさせるのです。それは、わたしがいつも自分の利益を求めているからです。わたしは神を愛さないで、自ら神になろうとする欲求を、心の内に持っています。わたしは自分でどうしても神になることができないので、わたしの心の中に、しばしば神に対する敵意を、いや、憎しみさえ覚えるのです。ですから、わたしは、本来、神と隣人を憎む傾向にあることを認めないわけにはいきません。」神を憎み、人を憎むようになってしまっている、ここに、人間の悲惨を見ると記されているのです。
2.ここに愛がある
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」(9)。神さま抜きの自分勝手な人生を歩んでいた者、神さまの前には死んだも同然の者のために、神さまはそのひとり子をつかわしてくださいました。「それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされた」(9後半)のです。10節には「ここに愛がある」と宣言されています。神さまは、イエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださったことによって、愛を実行してくださいました。みずみずしいいのちを失い、硬い心しか持ち合わせなかった者が、この神の愛に触れ、主イエスを信じる恵みにあずかるとき、みずみずしいいのちにあずかり、愛を語る者へと変えていただけるのです。
3.互いに愛し合おう
「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか」(7)。「互いに愛し合う」ということは、「さあ、神を知ろう。神を礼拝しよう」ということと同じことだと、私はある本を読んでいて知ることができました。ややこしい人間関係を断ち切って、一人で神の前に出る方が良いと思う時があるかもしれません。しかしそれは、主イエスの愛によって神を知る道ではありません。愛なる神のみ前に共に礼拝をささげるとき、私たちは神の愛にあずかり、そこに互いに愛し合う群れが造られていくのです。
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2018年11月18日

「人をさばくな」

マタイ7:1〜6 島津吉成師
1.「人をさばくな」とは
イエスさまは、「人をさばくな」と言われましたが、どんなことであってもさばいてはいけない、ということでしょうか。子どもが間違っていることをしたとき、親は、「それは間違っている」と言わなくてはなりません。イエスさまは、そのようなことも禁じておられるのでしょうか。
イエスさまは、別のところで「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」(ヨハネ7:24)と言われました。私たちは、うわべだけを見て、人をさばいてしまうことがあります。そのとき、私たちは、自分には甘く、人には厳しくなりがちです。また、感情的になって、早急な判断をしてしまうこともあります。イエスさまは、そのような形でなされるさばきを戒めておられるのです。
2.梁を取りのけなさい
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」とイエスさまは言われます。イエスさまというお方は、ユーモアのあるお方だなあと思います。「目の中に梁がある」という絵を想像してみてください。ユーモラスですよね。互いに裁き合って感情が高ぶっているとき、必要なのはユーモアのセンスです。ユーモアは、心に落ち着きとゆとりを与えます。
ここで「梁」と言われているのは、「罪」のことです。自分の中に罪があるということに気づきなさい、とイエスさまは言われるのです。「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と言われていますが、罪を取りのけてくださるのは、イエスさまです。イエスさまの十字架の恵みが自分のためであったとわかるとき、目の中の梁が取りのけられるのです。そのとき、「はっきり見える」ようになります。神さまの愛がはっきり見えるようになります。また、自分が感情的にさばいていた人に対しても、神さまがどんなに深い愛をもって愛しておられるのかが、はっきり見えるようになります。そのとき、その人への接し方が変わっていきます。間違いを指摘するときも、その人のことを思って伝えるようになります。そのような言葉は、相手に届くのです。
3.豚に真珠
「聖なるもの」「真珠」とは、十字架の恵みのことです。それを伝えても、足で踏みつけ、かみついてくる人がいるというのです。そのような人に対しては、言葉で伝えようとしても伝わりません。背後で祈り、後ろ姿で証ししていくことが大切です。

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2018年11月11日

「労苦はむだになることはない」

コリント第一15:50〜58 島津吉成師
今朝の礼拝は、召天者記念礼拝です。すでに天に帰られた兄弟姉妹を覚えつつ礼拝をおささげいたします。
1.死への勝利
 私たちにとって、最大の敵は「死」です。主イエスの十字架と復活は、この死に対する勝利でした。
@キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえられました(20)。初穂が実るということは、それに続いて豊かな収穫があるということです。キリストが初穂としてよみがえられたということは、後に続く私たちもよみがえるということが約束されているのです。
A「終わりのラッパの響きと共に」(51)とは、主イエスが再びおいでくださる再臨の時ということです。そのとき、死人は朽ちない者によみがえらされ、変えられるのです。私たちの肉体は、やがて朽ちていきます。しかし、やがてのとき、私たちは朽ちない体へと変えられるのです。ここに、私たちの希望があります。主イエスの十字架と復活によって、「死は勝利にのまれてしまった」のです。
2.むだになることはない
伝道の書は、こういう言葉で始まります。「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人がするすべての労苦は、その身になんの益があるか」(2〜3)。せっかく努力して積み上げてきたものが、ガラガラと崩れ去ってしまい、むなしさを感じることがあります。
しかし、聖書は言うのです。「労苦はむだになることはない」(58)と。私たちの労苦が、どのような形で実を結ぶのかはわかりません。神さまだけがご存知です。その父なる神さまは、「あなたのしてくれた労苦は、一つも無駄にはしない」と言ってくださるのです。
3.いつも全力を注いで主のわざに励みなさい
@「堅く立って動かされず」。当時も、死者の復活はない、と主張している人たちがいました。それに対してパウロは、主イエスが復活されたのは歴史的事実なのだから、この信仰に堅く立つよ
A「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。私たちは、天国で完成する聖堂を造っているのです。主が私たちを用いてくださるのです。感謝と喜びをもって、主のわざに励みましょう。
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2018年11月04日

「まず神の国と神の義を」

マタイ6:33~34 島津吉成師
私たちは、いろいろなことで思いわずらいます。でもイエスさまは、「 思いわずらうな」と言われました。なぜなら、「父なる神さまは空の鳥を 養い、野の花を美しく装ってくださっている。その神さまは、私たちにも っと良くしてくださらないわけがないではないか。だから、もっと神さま を信頼しよう」と言っておられるのです。そして、さらに言われたのが 、33~34節のみ言葉です。
1.まず神の国と神の義を
優先順位を間違えると混乱してしまいます。イエスさまは、「まず神の国
と神の義とを求めなさい」と言われました。「神の国」とは、「神さまが支
配しておられるところ」という意味です。「神の義」とは、「神さまが願っ
ておられる正しいこと」という意味です。私たちの優先順位の第一は、「神
さまのみこころ」です。私たちは「御国がきますように」、「みこころが天
に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、神さまのみここ
ろが実現することを求めていくのです。そのとき、必要なものは、神さまが
与えてくださると約束してくださっています。
2.使命に生きる
「使命」とは、「命を使う」と書きます。私たちは、何のために命を使う
のでしょうか。お金はとても大事です。でも、お金儲けのためだけに働くと
いうのはつまらないと思います。神さまは、「あなたにはこのことを頼む」
と一人ひとりに使命を託してくださっているのです。神さまが託してくださ
っている使命を果たすために命を使う、ここに、神さまに喜ばれる人生がつ
くられていくのです。
3.今を生きる
イエスさまは、「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあ
す自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分であ
る」と言われました。明日のための準備をしなくて良い、ということではあ
りません。明日のことを心配して、今、なすべきことが手につかない、とい
うことではいけない、ということです。明日のことは明日にゆだねて、今日
なすべきことを精一杯、果たしていくことが大事です。
「まず神の国と神の義を求める」というとき、何よりも、日曜日の礼拝を
大切にしましょう。神さまを第一にするということは、礼拝を第一にすると
いうことです。そのとき、私たちの生活は整えられていきます。神さまから
のいのちをいただいて 今を 精一杯 生きる力が与えられるのです。
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