2018年12月30日

「岩の上に家を」

マタイ7:24〜29 島津吉成師
今年 の初めから山上の説教を学んできましたが、いよいよ、最後の結論の部分となりました。
1.嵐が来る
イエスさまは、ここで、賢い人と愚かな人について語っておられます。賢い人も愚かな人も、同じように家を建てました。これは、それぞれが自分の人生を建て上げていくということを言われているのだと思います。家を建て上げたとき、嵐がやってきました。賢い人にも、愚かな人にも、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹く」と、同じ言葉で嵐が来ることが言われています。これは、人生には、苦難や試練の時が来る、ということを言っているのでしょう。特に、同じ言葉で言われているので、誰にでも平等に訪れる、最大の試練である「死」のことが言われているのだと思います。
嵐が襲ってきたときに、賢い人の家は倒れませんでしたが、愚かな人の家は倒れてしまいました。何もないときには、賢い人と愚かな人の違いはわかりません。しかし、嵐が来たときに、その真価が問われます。嵐が来ても倒れない、そのような人生を建て上げているか、とイエスさまは問うておられるのです。
2.揺るがない土台
では、賢い人と愚かな人の違いは、何だったのでしょうか。それは、イエスさまの言葉を聞いて行う人と行わない人の違いだと、イエスさまは言われました。イエスさまの言葉を聞いて行う人は、自分の人生を岩の上に建てるようなもの、反対に、イエスさまの言葉を聞いても行わない人は、自分の人生を砂の上に建てるようなものだ、と言われるのです。「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:22)と言われているように、み言葉を聞いて、それを実行していくことが大事なのです。
その上で、もう一つの問いがあります。それは、ここでは、私たちの実行力だけが問われているのだろうか、ということです。大事なことは、イエスさまの言葉を、どのような言葉として聞くか、ということが問われているのです。イエスさまは、「権威ある者」として教えられたとあります。それは、救いをもたらす神の言葉として語られたということです。聖書を神の言葉として聞く、これこそが嵐にも揺るがない土台です。そして、神の言葉として聞くときに、聞くだけで終わるはずはないのです。さらに、ルカによる福音書では、「地を深く掘り」(ルカ6:48)と書かれています。み言葉を深く掘りましょう。命の泉はそこから湧いてくるのです。
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2018年12月23日

「きょう、救いがこの家にきた」

ルカ19:1〜10 島津吉成師
今朝は、主イエスのご降誕を祝い、感謝するクリスマスの礼拝です。イエスさまは何のために来てくださったのでしょうか。イエスさまは言われました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
1.ザアカイ
@ザアカイは、取税人のかしらで、お金持ちでした。当時、取税人はローマ帝国の手先ということで、また、取り立てたお金で私腹を肥やしたりしていたので、人々から嫌われていました。
Aザアカイは、「背が低かった」と書かれています。きっと、これが彼のコンプレックスになっていたのだと思います。このコンプレックスをバネにして、彼は人に嫌われても、がむしゃらに頑張って、現在の地位と富とを手に入れたのではないでしょうか。しかし、それらでは、彼の心は満たされませんでした。
Bザアカイは、イエスさまが来られると聞いて、ぜひお目にかかりたい、と思いましたが、道はすでに人でいっぱいで見ることができません。そこで彼は、木に登ってイエスさまを見ようとしました。それほどに、彼はイエスさまとお会いしたかったのです。
2.ザアカイよ、急いで下りてきなさい
@イエスさまは、木に登っているザアカイに、「ザアカイよ」と呼びかけられました。イエスさまは、ザアカイのことを知っていてくださったのです。
Aイエスさまは、「あなたの家に泊まることにしている」と言われました。孤独なザアカイのことを、イエスさまは愛してくださっていたのです。ザアカイは喜んでイエスさまを迎えました。こうして、イエスさまは、彼を尋ね出し、救ってくださったのです。
3.変えられたザアカイ
@ザアカイはイエスさまの愛を知って、劣等感から解放されました。もはや、人と比較して生きる必要はなくなったのです。
Aザアカイは、「財産の半分を貧しい人に施す。不正な取り立てをしていたら、4倍にして返す」と言いました。彼は、「受けるよりは与える方が、さいわいである」という人に変えられたのです。
B「きょう、救いがこの家にきた」と言われているように、ザアカイが変えられたことを通して、家族も救われたのです。
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2018年12月16日

「実によって見わけなさい」

マタイ7:15〜23 島津吉成師
 山上の説教も、いよいよ終わりに近づいてきました。イエスさまは、ここで警告を与えておられます。それは、にせ預言者がいるということです。
1.にせ預言者に警戒せよ
にせ預言者とは、間違ったことを教える人です。私たちがゴール(天国)に行けないように邪魔をする働きです。サタンの働きと言っても良いでしょう。にせ預言者は、羊の衣を着て近づいてくると言われています。いかにもサタンだという姿ではなく、とても優しそうな姿で来るのです。
そこで、「実によって見わけなさい」と言われています。実によって見わけるとは、どういうことでしょう。「父の御旨を行う者だけが天国にはいることができる」と言われていますが、にせ預言者はその逆のことを教えるのです。ですから、実によって見わけるとは、父なる神さまの御旨に添ったことを教えているか、そこからそらすようなことを教えているか、それによって見わけなさい、ということです。にせ預言者は、山上の説教の教えから私たちをそらそうとするのです。
2.にせ預言者の働き
では、にせ預言者の働きとはどんな働きなのでしょうか。
@聖書のみ言葉に対して、疑いや不信の種を蒔く。
A狭い門から入らなくても良い、と勧める。心の貧しい者であることを認め、罪を悲しみ悔い改める、そのような狭い門から入る必要はないと教える。
Bたくさんの人が行く、広い道を行こう、と勧める。
C神さまに頼らなくても、自分の力でできる、とそそのかす。
D失望した時、もう駄目だと思わせる。
E素晴らしいことをしても、それを父なる神さまのみ旨とは違う形で行うように仕向ける。多くの場合、神さまの栄光よりも自分の誉れを求める。
3.良い実を結ぶ良い木
心を貧しくし、罪を悲しみ、悔い改めるとき、父なる神さまは、私たちの罪を赦し、神の子としてくださいます。そして、家畜小屋の飼葉おけの中にまで降りて来てくださったイエスさまは、私たちの心の内にも宿ってくださいます。こうして、私たちを良い実を結ぶ良い木としてくださるのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とイエスさま言われました。イエスさまにつながっていましょう。それは礼拝の場に身を置くということです。良い実はそこから結ばれていきます。
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2018年12月09日

「狭い門からはいれ」

マタイ7:13〜14 島津吉成師
「狭い門」という言葉は、入学試験などで入学が難しい学校を表す言葉などにも使われたりします。では、イエスさまが言われた「狭い門からはいれ」とは、どういう意味なのでしょうか。
1.狭い門と広い門
ここには、「狭い門」と「広い門」ということが言われています。広い門は、大きな門で、その門を入って行くと道も広々としています。ですから、その門から入って行く人がたくさんいます。しかし、その行きつく先は滅びだというのです。それに対して、狭い門は、道も細いので、それを見つける人は少ないのです。でも、その門こそ、命への門なのです。
ここで、「狭い門」「細い道」と言われているのは、イエスさまがこれまで山上の説教で教えてくださった父なる神さまを信じる者の生きる道ということです。それは、心を貧しくして、神さまの前に謙虚な人、自分の罪を悲しんで悔い改める人、神さまから柔和な心をいただいて柔和に生きる人です。父なる神さまからゆるされた恵みを感謝して、人々のあやまちをゆるす人です。まず、神の国と神の義を求める人です。明日の思い煩いを父なる神さまにゆだねる人です。自分が人からしてほしいと望むことを、人にもそのとおりにする人、つまり、自分を愛するように人々を愛する人です。ここに、命に至る道があるとイエスさまは言われるのです。
ところが、多くの人は、この道を行こうとしません。神さまに喜ばれる道よりも目先の利益、目先の楽しさを求めてしまうのです。その行きつく先は滅びだとイエスさまは警告しておられます。
2.狭い門からはいれ
イエスさまは、「狭い門からはいれ」と言われました。ここは、山上の説教の結論の部分です。「良いお話を聞きました」で終わってはいけないのです。聞いたことに対して、応答しなければなりません。イエスさまは私たちを、狭い門、命への道へと招いてくださっているのです。
その道は、たくさんの人々が行く道ではありません。ですから、同調圧力が強い日本の社会の中では、この狭い道を行くには勇気がいります。しかし、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言ってくださるイエスさまが、どんなときにも共にいてくださり、一歩一歩の歩みを導いてくださり、命へと至らせてくださるのです。これこそ、本当に「さいわい」な人生の道です。狭い門からはいりましょう。
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2018年12月02日

「求めよ」

マタイ7:7〜12 島津吉成師
山上の説教を少しずつ学んできましたが、いよいよ結論の部分に入ります。
1.求めよ
イエスさまは、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われました。イエスさまは、「今、あなたが必要としているものは何ですか。父なる神さまにお祈りしてごらん。きっと、与えられるよ」と言われたのです。父なる神さまに大胆に求めましょう。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」と、イエスさまは言われました。
2.良い贈り物
さらに、イエスさまは言われました。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」。
お祈りして求めたけれども、それが与えられなかった、という経験をしたことがあるかもしれません。それに対して、イエスさまは言われるのです。「人間の親だって、子どもがパンを求めるのに、石を与えるようなことはしない。魚を求めるのに、へびを与えるようなことはしない。そうだとしたら、なおさら、父なる神さまは、求めてくる者に良いものをくださらないはずがないではないか。だから、祈っても与えられなかったということではない。あなたが求めるものよりも、こっちの方がもっと良いものだよ、というものを父なる神さまは与えてくださるのだ」と言われたのです。
3.愛に生きる
イエスさまは、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」と言われました。「律法であり預言者である」とは、旧約聖書という意味で、「これが、聖書が教えている中心的なことだ」と言われたのです。「人からしてほしいと思うこと」とは何でしょうか。突き詰めると、「愛される」ということではないでしょうか。「だから、あなたも人を愛する、そのような生き方をしなさい」と言われるのです。そして、「その愛を求めなさい、必ず与えられる」とイエスさまは言われたのです。
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