2019年01月27日

「目をあげて」

創世記13:1〜18 島津吉成師
1.初めの信仰に戻る
アブラハムは、エジプトに行って大きな失敗をしてしまいました。彼は、再び最初に築いた祭壇のところに戻り、神さまを礼拝しました。初めの信仰に立ち戻ったのです。誰でも、失敗をすることはあります。そこで大事なことは、そこからどう立ち上がるかです。
2.争い
アブラハムと甥のロトには、たくさんの家畜がいました。彼らが住んでいたところでは、両者の家畜を養うための牧草などが十分にはありませんでした。そこで、アブラハムの家畜を飼う牧者とロトの牧者との間に争いが起きてしまいました。牧草や飲み水のことで争いが起きてしまったのでしょう。貧しいときには助け合っていても、豊かになると争いが起きてしまうということがあります。豊かになったときほど、注意が必要です。
3.アブラハムの提案とロトの選択
そこでアブラハムは、ロトに、別れて住むことを提案します。そして、どちらに行くか、それを決める優先権をロトに与えるのです。普通に考えるならば、年長者であるアブラハムが先に決めても良いはずです。しかし、アブラハムはそれをしませんでした。一つの理由として考えられることは、「そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた」(7)とわざわざ書かれていることです。神さまを信じる者が争い事を起こしていては証しになりません。そこで、アブラハムはロトに選択の優先権を与えて、円満に別れる道を選んだのだろうと思います。
そこでロトは、よく潤っている低地を選びます。しかし、その地の人々は、「主に対して、はなはだしい罪びと」(13)でした。彼は、目先の利益を優先して、神さまに喜ばれる所かどうか、ということを考えませんでした。
4.アブラハムへの神の祝福
ロトが低地を選んだので、アブラハムは山地に向かいます。そこは、牧畜に適した場所とは言えません。アブラハムは、そこでの生活に不安を感じていたかもしれません。そのアブラハムに神さまは言われます。「目をあげなさい」。「うつむいているのではなく、信仰の目を神さまの方に向けなさい」と神さまは言われたのです。そして、「この地と多くの子孫をあなたに与える」と約束してくださいました。アブラハムは、そこに祭壇を築きました。彼は、神さまを信じたのです。神さまが与えてくださった地で、神さまを信じて生きる、そこに信仰に生きる者の姿があります。
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2019年01月13日

「主の憐れみ」

創世記12:10〜20 島津吉成師
1.ききん
アブラハムは、神さまから示された地に来ましたが、そこでききんに会いました。信仰生活には、何も問題が起こらないということはありません。アブラハムにききんが訪れたように、私たちの信仰生活にも試練がやって来ることがあります。
そこで、アブラハムはエジプトに避難することにします。しかし、彼がこの決断をするにあたって、今までのように「祭壇を築いた」ということが書かれていません。どうも、彼は、神さまにお祈りをしないで、自分で決めてしまったようです。そのために、彼の心に不安が襲ってきました。それは、妻のサライが美しかったので、夫の自分が殺されて、妻を略奪されるのではないか、ということでした。そこで、彼は妻のサライに、自分の妹だと言ってほしいと頼みます。これは、まったくの「うそ」ではありませんでした。サライは、異母妹(20:12)だったからです。しかし、妻なのですから、やはりこれは自分の身を守るための「うそ」でした。エジプトに着くと、サライは、なんとエジプトの王様に見染められて、王宮に召し入れられてしまいます。そして、アブラハムは王様からたくさんのプレゼントを貰うのです。表面的にはうまくいったようです。しかし、これでよかったのでしょうか。「祝福の基となる」という主の約束は、どうなってしまうのでしょうか。
2.ところで主は
この危機的な時に、神さまが介入されます。「ところで主は!」真っ暗な世界に、突然、光が差し込んだのです。しかし、その介入の仕方は私たちの予想に反するものです。なんと、神さまはエジプトの王様の方を打たれたのです。罰すべきは、アブラハムの方ではなかったでしょうか。なぜ、エジプトの王様の方を打たれたのでしょうか。一つのことは、サライを救うためには、エジプトの王様の方を打つしかなかったということがあります。でも、もう一つ、大事なことがここに込められています。それは、神さまは憐れみのお方だということです。考えてみてください。私たちは罪人です。私たちが打たれるべき者でした。しかし、父なる神さまは、御子イエスさまを打たれたのです。そして、私たちを救ってくださったのです。
このとき、アブラハムの心境はどんなだったでしょうか。きっと、自らの不信仰を恥じたことと思います。ですから、彼は、初めに築いた祭壇の所に戻って祈りました(13:4)。初心に立ち返ったのです。
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2019年01月06日

「出発」

創世記12:1〜9 島津吉成師
 神さまは、アブラハムを召し、ここから新しい時代を始めてくださいました。
1.召命
アブラハムはこのとき、75歳という高齢でした。また彼らには子どもがいませんでした。人間的な計算では、「祝福の基」となるには、とてもふさわしい人物とは思えません。しかし、神さまは彼を召されたのです。神さまは人間的な計算を超えたことをしてくださるのです。
神さまは、まず、アブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラハムが住んでいた所は偶像礼拝の盛んな所でした。神さまは、神さまに喜ばれないものから離れなさい、と言われたのです。
2.約束
旅立つに当たって、神さまはアブラハムに約束を与えてくださいました。それは、アブラハムを通して多くの子孫が与えられるということ、また、彼を祝福して、良いものを豊かに与えてくださるということ、さらに、祝福の基となる、つまり、彼を通して多くの人々が神さまの祝福にあずかるようになる、ということでした。アブラハムは、神さまの祝福をいただき、その祝福を人々に伝えるために召されたのです。
ここに、私たちの使命もあります。神さまは私たちを祝福してくださいます。それは、私たちが神さまの素晴らしさを体験し、それを多くの人々に伝えるためなのです。
3.出発
アブラハムは、神さまが「行きなさい」と言われた言葉に従って出発しました。そのとき、アブラハムは75歳でした。彼は、「新しいことを始めるのは、もう遅い」とは言いませんでした。神さまは、そのような人を用いてくださいます。
このとき、甥のロトもアブラハムについて行きました。ロトが一緒だったことによって、アブラハムはこれから面倒な問題に直面します。アブラハムはカナンの地に着くと、そこに祭壇を築いて神さまを礼拝しました。信仰生活とは、面倒な問題がなくなることではなく、様々な問題がある中で、そのど真ん中で、神さまに礼拝をささげていくことなのです。そうしていくときに、私たちは、問題の中で神さまの働きを体験し、こうして、神さまの祝福をいただき、神さまの祝福を証ししていく者とされるのです。
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2019年01月01日

「祝福の基」

創世記12:1〜3 島津吉成師
新しい年、信仰の父といわれるアブラハムの生涯を学びつつ、礼拝をささげていきたいと願っています。
1.祝福とは
祝福とは、「愛なる神さまが豊かな恵みを与えてくださる」ということです。神さまは私たちを愛してくださって、「あなたを恵むよ」と宣言してくださっているのです。人は神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる、ここに祝福された人間の本来の姿があるのです。しかし人間は、神さまの愛に背を向け、自分勝手な歩みを始めてしまいました。11章には、バベルの塔のことが書かれています。彼らは「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」(11:4)と言って塔の建設を始めました。これは、「自分こそ神だ」と言う、高慢になった人間の姿です。
このような暗黒の時代に、神さまは一人の人を選ばれました。そして、彼を通して、もう一度、神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる民を造ろうとされたのです。
2.祝福の約束
神さまはアブラハムに言われました。@「わたしはあなたを大いなる国民とする」。神さまは、彼に多くの子孫を与えると約束してくださいました。彼を通してイスラエルの民が生まれました。さらに、キリストを信じる者はアブラハムの子孫だと言われています(ガラテヤ3:29)。A「あなたを祝福し」。神さまはアブラハムに豊かな恵みを与えてくださると約束してくださいました。B「あなたの名を大きくしよう」。アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれるようになります。
 ただし、祝福は、すぐにわかる形で与えられるとは限りません。「どうして?」と思うことの中に、そこでしか知ることのできない宝が隠されているのです。アブラハムも、このような神の祝福を体験し、成熟していくのです。
3.祝福の基
アブラハムが祝福されたのは、彼によってすべての人々が祝福にあずかるためでした。しかし、それは彼が立派だったからということではありません。彼は失敗することもありました。でも、その度に彼は神に立ち返りました。その姿を通して、祝福が人々に伝わっていったのです。
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