2019年03月31日

「とりなしの祈り」

創世記18:16〜33 島津吉成師

1.わが友アブラハム
@創世記18章で、御使いがアブラハムを訪れた目的の一つは、「来年の春、子どもが与えられる」ということを伝えるためでした。そして、もう一つのことは、ソドム、ゴモラの町に滅びが迫っているということを伝えるということでした。
A主は、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」と言われました。イザヤ41章8節では、神さまはアブラハムのことを「わが友アブラハム」と言っておられます。心の深い思いを打ち明けることができるのが、真の友です。ソドムには、アブラハムの甥のロトがいました。主はアブラハムに、ロトとソドムの町に危機が迫っていることを伝えたのです。イエスさまは、弟子たち(私たち)のことを、僕とは呼ばず、友と呼んでくださいました(ヨハネ15:15)。主は、私たちにも、ひとりも滅びることを望まないという、御心を示してくださっています(Uペテロ3:9)。
2.アブラハムのとりなしの祈り
アブラハムは、ロトとソドムの町のために祈りました。
彼の祈りは、神さまに食い下がる祈りでした。「50人の正しい人がいても、その町を滅ぼされるのですか」と問い、主が「50人いたら、滅ぼさない」とのお答えを聞くと、45人いたら、40人いたら、30人いたら、20人いたら、最後には、10人いたら、というところまで食い下がります。何とかしてロトたちを救いたいという一心で、神さまに食い下がるのです。このように祈ることでアブラハムは、神さまも、人が滅びるのを望んでおられないというみ旨を知るのです。
3.とりなしの祈り手へ
@残念ながら、ソドムの町には、10人の正しい人も、いませんでした。私たちは、社会が悪いと言ったりします。でも、まず大事なことは、私が主の前に、主に喜ばれる存在になっているか、ということです。ここから始まるとき、主は私たちの周りの人々にも恵みを与えてくださるのです。
A私たちは、自分の力で正しい者となることはできません。イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかり、とりなしの祈りをささげてくださったので、神さまに受け入れていただける者とされたのです。
Bこの恵みにあずかった私たちは、今度は、アブラハムのように祈る使命が与えられているのです。人々の救いのために、心を合わせて祈りましょう。
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2019年03月24日

「主にとって不可能なことはない」

創世記18:1〜15 島津吉成師
1.アブラハムのもてなし
@アブラハムは、その人たちが神の御使いだと知らずに、旅人をもてなしました。当時、旅は危険が伴うものだったため、旅人を泊まらせ、食事を提供するのが習慣だったそうです。イエスさまも、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)と言われ、互いに助け合うことの大切さを教えてくださいました。
A神さまは、私たちのところにも訪れてくださいます。普段の生活の中でも訪れてくださいますが、礼拝の場こそ、神さまが私たちを訪れてくださるときです。アブラハムは、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください」と言って、旅人を引き留めました。そして、最高のもてなしをしましました。私たちの礼拝に臨む姿勢は、どうでしょうか。「私を通り過ぎないでください」と言って、主に聞こうとする熱心さがあるでしょうか。自分にできる最高のものを主におささげしようという、主への愛があるでしょうか。アブラハムの姿に、礼拝に臨む姿勢を学びたいと思います。
2.不可能なことがあろうか
@主の使いは、「来年の春、サラには男の子が生まれている」と告げました。これは人間の常識を超えた、神さまからの約束の言葉でした。私たちが礼拝の場で聞く言葉も、人の思いを超えた神さまの言葉です。私たちが神さまに奉仕をする以上に、神さまが私たちのことをもてなしてくださるのです。
Aところが、それを聞いたサラは、笑ってしまいました。自分の現状を見るとき、それはとても信じられないことだったからです。すると、主は言われました。「主にとって不可能なことがありましょうか」。私たちもサラのように、主の語りかけを聞いても、現状だけを見て、み言葉を信じられず、心の中で笑ってしまうことがないでしょうか。そのような私たちにも、主は言われます。「主にとって不可能なことがあろうか」。
Bサラは恐ろしくなって、「わたしは笑いません」と答えました。それに対して主は、「いや、あなたは笑いました」と念を押されます。「わたしは不信仰でした。み言葉を信じられず、笑ってしまいました」と正直に答えられたら良かったのですが、それでも、ここで、サラが「恐れた」ということは大事なことでした。神を恐れる、そこから、自分の常識に固執するのではなく、全能の神を信頼する歩みが始まります。
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2019年03月17日

「新しい人」

創世記17:9〜27 島津吉成師
1.割礼
神さまはアブラハムに、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言われ、さらに「あなたに多くの子孫を与える。わたしは彼らの神となる」と約束してくださいました。そしてアブラハムに、この神さまの約束に応答するしるしとして、アブラハムとその一族は、割礼を受けるように命じられました。割礼は、男性の生殖器の先端の包皮を切り取るという儀式です。「こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう」(13)と、神さまは言われました。割礼を受けることによって、「神さまの民とされた」ということを身に刻むのです。ですから割礼は、ただ心の中で神さまを信じていきます、ということではなく、「すでに神さまのものとされている」ということを確かなこととして歩んでいくことができるようにという、神さまの配慮だったのです。
2.神さまの恵み
@アブラハムの妻サライも、神さまから新しいサラという名前をいただきました。サラとは、「女王」という意味です。「わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう」(16)と、神さまは約束してくださいました。
Aアブラハムは、神さまがサラを通して子どもを与えてくださると言われるのを聞いて、笑ってしまいました。それは、そのようなことは信じられないという不信仰の笑いでした。アブラハムの信仰は、ここでもまたぐらついてしまったのです。神さまは、そのアブラハムに、「産まれてくる子どもをイサクと名づけるように」と言われました。イサクとは「笑い」という意味です。神さまは、「本当に、喜びに溢れて笑う者となる」と言われたのです。
B神さまは、イシマエルのことも祝福してくださると約束してくださいました。イシマエルは、アブラハムが不信仰になってしまった結果、与えられた子どもです。しかし神さまは、そのイシマエルのことも祝福してくださると約束してくださったのです。
3.新しい人へ
 アブラハムは、神さまから言われたその日のうちに、割礼を受けることを実行しました。実行することの大切さを学びます。
神さまは私たちに、割礼に代わって洗礼の恵みを与えてくださいました。洗礼を受けることによって、古い私は死に、神の子としての新しい私が誕生します。キリストのからだである教会に属する者となり、神さまの祝福の基として、その使命を果たしていく者としてくださるのです。
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2019年03月10日

「全能の神」

創世記17:1〜8 島津吉成師
1.全能の神
アブラハムは神さまの約束を待つことができず、サラの女奴隷ハガルによって子どもを得ようとしました。ハガルがイシマエルを産んだとき、アブラハムは86歳でした。
それから13年後、アブラハムが99歳になったとき、神さまは彼に現れてくださいました。アブラハムにとって、この13年間は何を意味していたでしょうか。それは、自分の不信仰を悔い改めるとき、そして自分の無力さを受け止めるときだったのではないでしょうか。その彼に、神さまは言われました。「わたしは全能の神である」。全能の神とは、神さまには、おできにならないことは一つもない、ということです。自分の無力さを痛感していたアブラハムに、神さまは「わたしは全能の神だ。わたしにできないことは、一つもないのだ」と言われたのです。
2.全き者であれ
さらに神さまは、アブラハムに言われました。「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」。「全き者」とは、道徳的に完全な者という意味ではありません。「全能なるわたしを信じ切れ」、と言われたのです。アブラハムは、「ひれ伏した」と書かれています。「神さま、わかりました!」と答えたのです。
ローマ4章には、アブラハムの信仰についてこう書かれています。「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、…神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」。アブラハムは待てないときがあったのです。それによって大きな失敗をしてしまいました。しかし、もう一度、信仰に立つときに、神さまは、以前の失敗を赦し、「全き者」と見てくださるのです。
3.新しい名前
神さまはここで、彼に新しい名前を与えてくださいました。これまでの名前はアブラム(わが父は尊い)でしたが、アブラハム(多くの国民の父)という名前を与えてくださったのです。そして、「わたしはあなたを多くの国民の父とする」と約束してくださいました。
私たちも、イエスさまを信じるときに、新しい人に造りかえられます(Uコリント5:17)。神さまは、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と言ってくださいます。こうして私たちも、前に向かって進んでいくことができるのです。

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2019年03月03日

「見ていてくださる神」

創世記16:1〜16 島津吉成師
1.待つことの難しさ
神さまはアブラハムに、「多くの子孫を与えてくださる」と約束してくださいましたが、10年たっても子どもが与えられませんでした。そこで妻のサラは、自分の女奴隷ハガルによって子どもを得ることを提案します。夫婦の間に子どもが与えられなかったときの、これは、当時の習慣だったそうです。アブラハムはその提案を受け入れ、やがてハガルは子を宿します。
ところが、ハガルは自分の主人であるサラを見下げるようになるのです。軽蔑と嫉妬、二人の女性の間に陰湿な戦いが始まってしまいました。サラはアブラハムに訴えます。「これはあなたの責任です」。サラとしては、自分に子どもが与えられないということで、辛い思いでハガルを与えたのに、そのハガルをきちんと治めてくれないアブラハムへの不満が爆発したのだと思います。これに対して、アブラハムは答えます。「ハガルはあなたの奴隷なのだから、あなたの好きなようにしたらよい」。何と、アブラハムはこの問題から逃げてしまったのです。そこで、サラはハガルをいじめるようになるのです。
神さまの約束の実現を待つということには、忍耐が必要です。しかし、待つということは難しいものです。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:3〜4)と言われていますが、アブラハムもサラも、このときが、錬達した人となるために忍耐を学ぶ時であったのだと思います。
2.見ていてくださる神
さて、ハガルはいたたまれなくなり、逃げ出します。すると主の使いが彼女を見つけ、主人のもとに帰るように、そしてへりくだって仕えるようにと諭します。そして、あなたの子孫を増やすこと、産まれてくる子どもの名前をイシマエル(「神は聞く」の意)と名づけること、それは主があなたの苦しみを聞かれたからだ、ということ、その子は成長して強い人となることを告げます。
彼女は自分に語られた主の名を「エル・ロイ」と呼びかました。それは、「私を見てくださる神」という意味でした。こうして、彼女は主人のもとに帰ります。戻っていく環境は、前と同じでしょう。しかし、彼女はそこに帰ることができました。それは、彼女の苦しみを誰も理解してくれなかったとしても、神さまは知っていてくださる、そして見ていてくださるということを知ったからでした。神さまは、私たちのことも顧みていてくださいます。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Tペテロ5:7)。
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