2019年05月26日

「主の山に備えあり」

創世記22:1〜19 島津吉成師

1.試練
創世記22章は、アブラハムの生涯のクライマックスだと言われます。神さまはアブラハムを試みられました。神さまは、試練を通してアブラハムの信仰をさらに高嶺へと引き上げられようとされたのです。
アブラハムへの試練、それは愛するひとり子イサクを燔祭としてささげよ、というものでした。燔祭は、動物などを焼き尽くして、神さまへのささげ物とするということです。神さまがこのようなことを命じられるとは、考えられないことです。わが子を殺すということ、しかも祝福を受け継ぐ子として神さまが与えてくださったイサクを殺すなどということは、とても受け入れられないことです。
2.アブラハムの信仰
ところが、アブラハムはこの神さまの命令に淡々と従います。内面では、大きな葛藤があったと思いますが、聖書はそのことに触れていません。聖書はアブラハムの信仰がどのようなものであったかを描き出すのです。自分が理解できないことであっても、神さまを信頼して従う、これがアブラハムに与えられた試練でした。アブラハムはイサクから「燔祭の小羊はどこにありますか」と聞かれたとき、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えています。「備える」と訳されている言葉には、「見る」という意味があります。彼は、「神さまが見ていてくださる」と答えたのです。自分には理解できない、自分の描いていた将来の計画も見えなくなってしまったという状況の中で、アブラハムは、神さまは見ていてくださる、そして最善の備えをしてくださっている、と信じたのです。
3.主の山に備えあり
 アブラハムは、神さまが示された山に着くと、イサクを縛り、刃物を振り上げます。そのとき、御使いがアブラハムを呼び、「わらべに手をかけてはならない」と言って止めます。アブラハムが目をあげて見ると、そこに一頭の雄羊がいました。彼はそれをイサクの代わりに燔祭としてささげました。そして、アブラハムはその所をアドナイ・エレ(主の山に備えあり)と呼んだのです。確かに、神さまは、見ていてくださり、備えていてくださるお方でした。アブラハムは、イサクをわが子として握りしめていました。その子を、ここで神さまにささげました。そして、神さまから預かった子としてイサクを受け取り直したのです。こうして、神さまはアブラハムの家庭を、祝福を受け継ぐ家庭としてきよめてくださったのです。
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2019年05月19日

「神はあなたと共におられる」

創世記21:22〜34 島津吉成師

1.寄留の地で
アブラハムは神さまに導かれて、神さまが示してくださる地に来ましたが、まだ一坪の土地も与えられていませんでした。彼は、言わば外国から来た人がそこで生活しているという状態だったのです。ですから、とても弱い立場でした。しかも、現地の人たちと井戸のことで争いがあったようです。アブラハムが掘った井戸が、現地の人たちに奪われてしまったのです。この地方は水が少ないので、せっかく掘った井戸が人に奪われてしまうということは大きな問題でした。
2.神はあなたと共におられる
この地方の王様であるアビメレクと軍勢の長ピコルが、アブラハムのところに来ました。そして、お互いに危害を加えない、という契約を結ぼうと提案します。アブラハムは、「わたしは誓います」と言ってその申し出を受け入れますが、アビメレクの部下たちによって奪われた井戸を返すように求めます。アビメレクは、そのことを知らなかったと言って言い逃れをしようとしますが、返すことを約束します。
どうして強い立場にあるアビメレクが、アブラハムとこのような契約を結ぼうとしたのでしょうか。それは、アビメレクが言った「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」という言葉に鍵があります。アビメレクはアブラハムの生活を見て、「神が彼と共におられる」ということを感じ、彼と争ったら大変なことになると思ったのでしょう。それは、アブラハムが立派だったからでしょうか。そうではないと思います。イサクの誕生が、アビメレクに強い印象を与えたのではないでしょうか。人間的には全く希望が持てない状態の中で、神さまが彼らに子どもを与えてくださったのです。そのことを見て、アビメレクは「神がアブラハムと共におられる」ということを感じたのだと思います。
3.イエス・キリストによって
 イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)を実現するために来てくださいました。私たちは、罪のために神さまとの関係が断絶していたのです。イエスさまが、その罪を代わりに負って十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪は赦され、神さまとの交わりが回復し、「神われらと共にいます」が実現したのです。こうして、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)と言われているように、私たちも力強く歩んで行くことができるのです。
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2019年05月12日

「恐れてはいけない」

創世記21:8〜21 島津吉成師
1.サラの訴えとアブラハムの心配(苦しみ)
アブラハムはイサクが乳離れしたとき、盛大なお祝い会をしました。当時は、3歳位が乳離れのときだったそうです。この喜びのときが、一転して苦しみのときとなってしまいました。サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサクと遊んでいるのをサラが見たのです。「遊ぶ」と訳されているところを、別の翻訳の聖書では「からかっている」と訳しています。サラは、アブラハムに訴えます。「このはしためとその子を追い出してください」。サラは、イシマエルが後継ぎとなることを恐れたのです。アブラハムは、イシマエルも自分の子どもなので、とても苦しみました。
2.心配することはない
そのとき神さまは、アブラハムに言われました。「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。アブラハムは神さまの約束を信じることができず、人間的な策をろうして生まれたのがイシマエルでした。信仰の父アブラハムは、不信仰から離れなければならなかったのです。これは、私たちの問題です。神さまを信じて、神さまに従うよりも、自分の計算で事を行ってしまっていることはないでしょうか。「あなたの内から、不信仰を追い出せ」と神さまは言っておられるのです。
神さまはアブラハムに、イシマエルのことも祝福してくださる、と約束してくださいました。失敗をして生じてしまった結果の中にも、神さまのあわれみのみ手が伸ばされているのです。
3.目を開かせてくださる神さま
追放されてしまったハガルとイシマエルは、荒野をさまよい、ついに皮袋の水が尽きてしまいました。イシマエルは声をあげて泣きました。そのとき、天の使いがハガルを呼びました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない」。神さまは、イシマエルも一つの国民とすると約束してくださっていました。ところが、ハガルはそのことを信じることができず、「もう終わりだ」と思ってしまっていたのです。神さまは彼女の目を開いてくださいました。すると、すぐ近くに井戸があるのに気づきました。もう駄目だと思うすぐそこに、神さまの救いは備えられていたのです。
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2019年05月05日

「笑わせてくださる神さま」

創世記21:1〜7 島津吉成師
1.笑い
神さまはアブラハムに、「あなたを祝福の基とする。あなたの子孫は夜空に輝く星のように多くなる」と約束してくださいました。ところが、アブラハムとサラの間には、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムに最初の約束が与えられたときが75歳で、子どもが与えられたのが百歳だったとありますから、実に25年間も待たされたわけです。子どもが与えられたということは、アブラハムとサラにとって、どんなに嬉しかったことでしょう。
神さまはアブラハムに、子どもの名前はイサクと名づけるようにと言われていました。イサクとは「笑い」という意味です。子どもが誕生する一年前、御使いが「来年の春、子どもが生まれている」と告げたとき、サラは笑いました。そのときの笑いは、「そんなこと、あるわけがない」という苦笑いでした。しかし、ここでの笑いは心からの喜びの笑いでした。「神はわたしを笑わせてくださった」のです。信仰生活は、苦虫を噛みつぶしたような顔で生きるのではなく、笑わせてくださる神さまの恵みの中で朗らかに歩む生活です。
2.アブラハムの信仰
ローマ人への手紙第4章に、アブラハムの信仰についてこう記されています。「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(4:19〜21)。
創世記に記されているアブラハムの歩みを見ると、彼は何度も不信仰に陥り、失敗を繰り返すようなことをしています。では、ローマ人への手紙に書かれていることは間違いなのでしょうか。そうではないのです。アブラハムが不信仰に陥ってしまうとき、失敗をしてしまうとき、いつも神さまはそのアブラハムに手を差し伸べ、彼を助け起こし、正しい道へと導いてくださいました。彼はその度に、心から悔い改め、神さまに立ち返りました。そのアブラハムを神さまは赦し、彼の信仰を受け入れてくださったのです。そして、神の約束を確信する者と見てくださるのです。こうして、アブラハムとサラを笑わせてくださった神さまが、私たちとも共にいてくださいます。私たちをも「祝福の基」としてくださるのです。
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