2019年06月30日

「祝福された結婚」

創世記24:1〜9 島津吉成師

1.祈り
アブラハムはイサクの嫁を探すために、しもべを故郷に遣わします。そのとき、アブラハムはしもべに言いました。「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」。主が先に行って、働いていてくださるのです。
しもべは、アブラハムの故郷に着くと、井戸のそばで祈りました。「私が水を飲ませてくださいと頼んだとき、『あなたのらくだにも飲ませましょう』と言う娘がいたら、その者こそ、イサクのために定められた者ということにしてください」。しもべは、このような心優しい人こそ、イサクの嫁にふさわしいと思ったのです。
2.祈りの答え
しもべがまだ祈り終えないうちに、リベカがやってきます。そして、しもべが「水を飲ませてください」と頼むと、彼に水を飲ませただけでなく、らくだにも水を汲んで飲ませてくれたのです。しもべが、彼女に「誰の娘か」と聞くと、何と、アブラハムの親族の娘であることがわかりました。それを知ったしもべは、主に感謝の祈りをささげます。
しもべは、彼女の家に行き、事の顛末を話します。すると、リベカの兄ラバンとリベカの父ベトエルは、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことはできません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」と答えます。さらに、翌日、しもべは、リベカを連れてすぐに帰らせてほしいと願い出ます。そのことをリベカに聞くと、リベカは「行きます」と答え、旅立つのです。
ここには、現代の結婚の状況とはかなり違った様子が書かれています。しかし、ここに、結婚の一番大事なことは何か、ということが記されているのです。それは、「神が合わせてくださった」という信仰です。これが、結婚生活を支えるのです。
3.見ていてくださる神
 62節以下には、イサクとリベカが出会い、彼らが互いに愛し合い、幸いな家庭を築いていった様子が美しく描かれています。62節には、「ベエル・ラハイ・ロイからきて」と書かれています。「ベエル・ラハイ・ロイ」とは、「私をご覧になる生きている方の井戸」という意味です。かつて、ハガルが逃げ出した時、神さまが彼女と出会ってくださった場所です。見ていてくださる神が、それぞれの人生を、支え、導いてくださるのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年06月23日

「旅人、寄留者として生きる」

創世記23:1〜9 島津吉成師

1.サラの死
アブラハムの妻、サラが亡くなりました。長い年月、苦労を共にしてきた妻サラが亡くなったのです。アブラハムは、悲しみ泣きました。アブラハムにとって、妻サラを失うということがどんなに辛いことだったかということが、この短い言葉の中に表されています。キリスト者は、復活の希望に生きています。しかし、地上で再び愛する者の声を聞くことができないということは、やはり、大きな悲しみです。悲しいときに、それを抑えるのではなく、泣き、悲しむということは大事なことです。ですから、誰かが悲しんでいるときに、安易な励ましを語ることよりも、「泣く者と共に泣く」ということが大切です。
2.墓を求める
悲しみ泣いたアブラハムは、そこから立ち上がります。悲しみを十分に出すとき、不思議と立ち上がる力が与えられるのです。
アブラハムは、サラを葬る墓地を与えてほしいと、その地の人々に願い出ます。そのときアブラハムは、自分のことを「旅の者で寄留者ですが」と言っています。神さまを信じて生きる者にとって、本当の故郷は天の御国です。天の御国に国籍を持つ者として、この地上では、旅人であり、寄留者なのです。つまり、この地上の価値観に埋没しないで、この地上にあって、天の御国の市民として生きるのです。それが、「地の塩、世の光」としての生き方です。
地元の人は、「自分たちの墓地の中に葬りなさい」と提案します。これは、この地の人々の中に同化してしてしまうということにつながってしまいます。それでアブラハムは、エフロンという人が持っている畑の一部を買わせてほしい、と願い出ます。そして、法外な値段を要求されるのですが、きちんとした手続きをして、彼はその畑を買い取ります。ここに、天の御国の市民、この地上では寄留者として生きる者の生き方が示されています。犠牲を払ってでも、礼を尽くし、人々との良い関係を築き、責任を果たすことによって、証しを立てていくということです。
3.墓の意味
 @故人を偲び、感謝を新たにする場所。
 A復活の信仰を新たにする場所。イエスさまは、墓に葬られましたが、死を打ち破ってよみがえられました。この復活の恵みを私たちにも与えてくださるのです。私たちは、墓の前に立ち、この信仰を新たにするのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年06月16日

「神が証ししてくださる」ヨハネ第一5:6〜12

私はここ2か月ほど、一つの賛美を歌い続けています。「御名を掲げて」という賛美です。その歌詞の中に「救いの道を 与えに」というフレーズがあります。こんな私のために、イエスさまがすべての栄光を捨てて、天から来てくださったのだと思ったら、嬉しかったです。喜びでした。
1.神のあかし
さて、今朝、与えられているヨハネ第一5章6〜12節には、「あかし」という言葉が繰り返し記されています。「あかし」とは、もともと裁判用語で、明確な根拠を示すことに用いられます。信仰が真実なものであるか、その確かさの根拠はどこにあるか、ということです。
6節に、そのあかしをするものは「御霊」である、と言われています。そして、そのすぐ後で「神のあかし」という言葉が繰り返し出てきます。つまり、神さまご自身があかししてくださるということです。人間のあかしに勝って、これほど確かなあかしはありません。ですから、神さまがあかししてくださることを、私たちは喜んで受け取るのです。
2.水と血と永遠のいのち
神さまがあかししてくださること、それが6節から語られている言葉です。「イエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」。水は洗礼、血は十字架を意味しています。イエスさまは、なぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。洗礼は罪ある人間がきよめていただくために受けるものです。イエスさまは神の御子であり、罪のないお方でしたが、そのイエスさまが洗礼を受けられたということは、イエスさまは罪人の仲間入りをしてくださった、ということです。
そして、イエスさまは十字架につけられ、血を流されました。すべての人の罪を担って、ご自分の命を捨てて、十字架ですべての罪を処分してくださったのです。こうして、イエスさまは私たちの罪が赦される道、私たちが神さまと交わることのできる道を開いてくださったのです。この水と血を通って勝利してくださったイエスさまが救い主であることを、御霊は、すなわち神さまはあかししてくださっているのです。
さらに、「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(11〜12)とあります。私たちに、永遠のいのち、死に勝ついのちが与えられていることを、神さまはあかししてくださっているのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年06月09日

「聖霊によって誕生した教会」使徒2:1〜4、41〜47

1.弟子たちに聖霊が降る
イエスさまは弟子たちに、ご自分が天に帰られた後、別の助け主を送るから、祈って待つようにと言われました(ヨハネ14:16、使徒1:4)。イエスさまの言葉に従って、弟子たちが集まって祈っていたとき、聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは聖霊に満たされたのです。これがペンテコステの出来事です。
聖霊は、旧約聖書の時代にも特別な時に特別な人に与えられていました。しかし、このペンテコステ以降、イエスさまを信じるすべての人に聖霊は与えられているのです(Tコリント6:19)。
使徒2章2〜3節には、聖霊がどのようなお方かということが、風と炎と舌に譬えて語られています。
@風 
 聖書の原語では、「風」と訳されている言葉には、「息」という意味もあります。エゼキエル書には、枯れた骨に息が吹き込まれると生き返ったという幻のことが記されています(エゼキエル37章)。聖霊は、疲れ切った人にも新しい生命を与え、立ち上がらせてくださるお方です。
A炎
 炎は、物を焼き尽くします。聖霊は、罪を焼き尽くし、私たちの心をきよめてくださるお方です。
B舌
 聖霊は、私たちの言葉を変えてくださいます。不平と不満しか口から出ないような者を、賛美と感謝の言葉が出て来る者へと変えてくださるのです。特に、ペンテコステのとき、弟子たちは他国の言葉で語り出し、外国から来た人たちにも、彼らの話すことがわかった、ということが起きました。バベルの塔以来、言葉が違ってしまったため、人と人との間に壁ができてしまいました。聖霊は、その壁を除き、人と人との心が通じ合えるようにしてくださるのです。
2.教会の誕生
こうして、教会が誕生しました。その教会の様子が41節以下に書かれています。彼らは、「ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをして」いました。そして、互いに愛し合いました。このような教会に、主は仲間に加わる人々を送ってくださったのです。
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年06月02日

「光は闇の中に」 須郷裕介師

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの手紙第一 1章9節)


「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」(詩篇30篇5節)
posted by グロリアスチャペル at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記