2019年08月18日

「力と聖霊と強い確信」

テサロニケ第一1:5 島津吉成師

1.聖霊が力をもって働く
パウロはテサロニケの人々に福音を伝えました。そのときのことを彼は、「それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによった」と語っています。ここで、「言葉だけによらず」とは、「言葉だけでは足りないので」という意味ではありません。ローマ1章16節では、こう言われています。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」
福音は、「救いを得させる神の力です」。福音の言葉が伝えられるとき、言葉と共に聖霊が力をもって働かれ、そこに救いの出来事を起こしてくださるのです。聖霊は、神の愛に気づかせてくださいます。また、自分の罪に気づきかせてくださいます。そして、主イエスの十字架が私のためであったということを悟らせてくださいます。こうして、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられている喜びに生きる者へと変えてくださるのです。これが、聖霊の力です。
これは、私たちが日々、聖書を読むときにも起きることです。聖書の言葉と共に聖霊は働いてくださり、そこに書かれている言葉が単なる言葉ではなく、私たちを生かす力となっていくのです。
2.強い確信
パウロは、福音はすべての人を救う神の力だという確信をもって、テサロニケの人々に福音を伝えました。
パウロは、教会を激しく迫害した人でした。しかし、彼はよみがえられた主イエスに出会い、彼の人生は180度、変えられたのです。ですから、「福音はどんな人をも救うことができる」、それが彼の体験でしたし、彼の確信でした。この確信をもって、彼は福音を伝えたのです。
私たちも、この確信を持ちたいと思います。「あの人は難しい」とあきらめていませんか。神さまは、ひとりの人が滅びるのも望んでおられません。すべての人が救われるのを願っておられるのです。福音は、この人をも救う力があるという確信をもって、福音を証ししていきましょう。
パウロは続けて、「わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである」と書いています。その内容については第2章に書かれていますが、つまり言葉と生活が分離していなかった、ということです。聖人君子になれということではありません。欠けのある者を、主は恵みを注いで、用いてくださるのです。
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2019年08月11日

「愛され、選ばれている恵み」

テサロニケ第一1:4 島津吉成師

1.神に愛されている兄弟たちよ
パウロはテサロニケ教会の人たちに、「神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている」と呼びかけています。
キリスト教を一言でいうならば、「神さまは私たちを愛してくださっている」ということに尽きると思います。聖書は言います。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Tヨハネ4:10)。神さまの愛は無条件の愛です。また神さまの愛は、私たちを罪から救うために、御子をあがないの供え物としてつかわしてくださるほどの大きな愛です。神さまに逆らい、神さまに背を向けている者をも愛し、大きな愛を持って包んでくださるのです。
先のみ言葉は、こう続いています。「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである」(Tヨハネ4:11)。私たちが神さまの愛に包まれるとき、私たちも互いに愛し合う者へと変えられます。こうして、神の国(愛と平和と喜びの国)の拠点となる教会が造られていくのです。
2.神に選ばれている恵み
パウロはテサロニケ教会の人々に対して、「わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている」と言いました。それは、テサロニケ教会の人々が、「多くの患難の中で、聖霊による喜びをもってみ言を受けいれ」(1:6)たからです。自分が選ばれているのか、いないのかと思うことがあるかもしれません。しかし、そのように悩む必要はないのです。あなたが、み言葉を受け入れ、主イエスを救い主と信じたら、そこに、すでに神さまの選びがあったのです。私たちは賢かったから、救われたのではありません。神さまが選んでくださっていたから救われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と言われているとおりです。ですから、私たちはいつも謙虚に神さまに感謝し、仕えるのです。
また、神さまの選びは私たちを支えます。私たちは失敗することがあります。つまずくこともあります。しかし、いったん握りしめてくださった神さまの手は、私たちを放すことはないのです。ですから、私たちは信仰生活を、喜びをもって全うしていけるのです。
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2019年08月04日

「望みの忍耐」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

テサロニケ教会は、「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という3つの柱がしっかりと立っている教会でした。先週は「愛の労苦」ということを学びましたので、今朝は「望みの忍耐」について学びます。
1.主イエス・キリストに対する望み
2節には「わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐」と書かれています。新改訳聖書では、「私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」と訳されていました。
まず、「主イエス・キリストに対する望み」ということですが、1章10節に「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」と書かれています。主イエスは天に帰られましたが、再び来てくださるというのです。そのとき、死者はよみがえり、正しいさばきが行われ、愛と平和に満ち溢れた神の国が完成します。ここに、私たちの希望があるのです。
私たちは、せっかく努力してきたのに無駄に終わってしまうのか、ということに直面することがあります。がっかりすることがあります。でも、神さまは途中で投げ出すことはなさらないのです。必ず、完成へと導いてくださるのです。その神さまが、今も、私たちの中に働いてくださっているのです。ここに、私たちの希望があります。
2.希望に支えられた忍耐
この希望を持つとき、私たちは忍耐して、今、ゆだねられている務めに励むことができます。聖書が「忍耐」というとき、それは、ただじっと我慢しているということではありません。聖書がいう忍耐は、「木の根の力」に譬えられます。硬い岩に、木の根はジリジリと食い込んでいき、やがてしっかりと根を張っていきます。そのように、神さまは必ず完成させてくださるという希望を持って、今の務めに励むのです。
「人事を尽くして、天命を待つ」とよく言われます。しかし、キリスト者は、こう言うのです。「天命を信じて、人事を尽くす」。神さまは必ず完成してくださる、そのことを信じて自分の果たすべき務めに力を注ぐのです。
ゼルバベルに語られた主は、私たちにも語っておられます。「主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。」(ハガイ2:4)
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2019年07月28日

「愛の労苦」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

テサロニケ教会は誕生して間もない教会でしたが、迫害の中にあるにもかかわらず、マケドニヤとアカヤ地方で模範的な教会となりました。それは、信仰と希望と愛という3つの柱がしっかりと立っている教会だったからです。先週は「信仰の働き」ということを学びましたので、今朝は「愛の労苦」ということを学びましょう。
1.愛とは
愛の賛歌といわれる第一コリント13章では、真っ先に「愛は寛容であり、愛は情け深い」と言われています。
@「寛容」と訳されている「マクロスメオー」は、「マクロ」(大きい、時間や距離が長い)と、「スメオー」(怒り)という二つの言葉からできています。怒りを爆発させるのに時間がかかる、怒りから長い距離を置く、というのがもともとの意味で、そこから「広い心、寛容、忍耐強い心」という意味になりました。愛は広い心を持って人を受け入れ、包んでいくのです。
A愛は「忍耐強い」のです。すぐに結果が出なくても、支え続け、待ち続けます。
B愛は「情け深い(親切)」。誰かが助けを必要としているときに、進んで助けます。「愛とは特別な、英雄的なことをすることではなく、あたり前のことをやさしさをもってすることである。」(「共同体‐ゆるしと祭りの場」ジャン・バニエ著)と言われています。
2.愛の労苦に生きたテサロニケ教会
テサロニケ教会には、ユダヤ人もいればギリシャ人もいました。また貴婦人もいれば一般の人たちもいました。このような人たちが、互いに愛し合い、寛容、忍耐、親切に生きる教会をつくっていったのです。
さらに、テサロニケ教会は、極度の貧しさにもかかわらず、喜びをもって、惜しみなく、他の教会のために献金をし、パウロの伝道を助けました(Uコリント8:1〜2)。このようにして、彼らは愛の労苦に生きたのです。
3.愛の労苦に生きるために
 @主イエスが、どんなに私のことを愛してくださっているかを、ますます深く受け止め続けること。主イエスの愛が、私たちを変えてくださいます。
 A一人で生きてきたのではなく、どれだけ多くの人たちに助けられてきたのかということを覚えること。
 B神さまに祈ること。自分の力で愛に生きることはできません。でも、神さまは私たちにその力を与えてくださいます(ピリピ4:19)。
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2019年07月21日

「信仰の働き」

テサロニケ第一1:2〜3 島津吉成師

パウロはテサロニケ教会のために祈るとき、「いつも神に感謝」して祈っていると書いています。それは、テサロニケ教会の人たちが、信仰の働きと、愛の労苦と、望みの忍耐に生きているからでした。ここに、信仰、希望、愛という3つの柱が出てきます。柱がしっかりしていたら、その建物は大丈夫です。私たちの信仰生活にとって、この3つの柱がしっかりと立っているということが大切です。
今朝は、まず「信仰の働き」ということを学びましょう。
1.信仰の働きとは
私たちが救われるのは、私たちが良い行いをしたからということではなく、ただ、主イエス・キリストを信じたからです。決して、良い行い(働き)をしたからではありません。しかし、神さまの恵みによって救われた者は、神さまを信じる者としての生き方をするようになっていきます。それが「信仰の働き」です。ダビデがゴリアテと戦ったとき、「これは主の戦いだ」という信仰に立って戦い、勝利することができました。ダビデは、全能の神さまを信じるという信仰を働かせて戦ったのです。
2.信仰の薄い者たちよ
イエスさまは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、思いわずらっている人々を見て、「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30)と言って嘆かれました。当時の人々にとって、食べる物、飲む物、着る物というのは、切実な問題でした。ですから、思いわずらうのです。私たちにとっても、それぞれ、切実な問題を抱えているということがあります。だからこそ、思いわずらうわけです。イエスさまは、そこでこそ、信仰を働かせなさい、と言われるのです。
3.信仰を働かせるために
では、信仰を働かせるために、どんなことが大事なのでしょうか。
@空の鳥を養い、野の花を美しく装ってくださる天の父なる神さまが、私たちのことを養っていてくださるという信仰に立ちましょう。
A神の国と神の義とを求めましょう。神さまのみ旨に反していることをしていたら、信仰を働かせることはできません。神さまのみ旨と心を一つにしようとしている人に、神さまは力をあらわしてくださいます。
B明日を心配するのではなく、今日、一日を大切にして、そこに信仰を働かせて歩んで行きましょう。神さまの力に支えられて、「心を強くし、落ち着いて、朗らかに」、一日一日を歩んで行きましょう。
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2019年07月14日

「恵みと平安」

テサロニケ第一1:1 島津吉成師

1.テサロニケ教会
今朝の礼拝から、テサロニケ人への第一の手紙を読んで、そこから神さまの語りかけを聞きつつ礼拝をささげていきたいと思います。
パウロは、トロアスで「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(使徒16:9)との幻を見て、マケドニヤに渡ります。そしてまず、ピリピで伝道しました。その次に行ったのがテサロニケでした。ここでの伝道の様子については、使徒行伝17章に書かれています。救われる人も起きたのですが、激しい迫害も起きました。そのためパウロたちはテサロニケにいることができなくなり、次の町に行くことになります。でも、テサロニケ教会のことが心配でしたので、アテネからテモテをテサロニケに遣わします(Tテサロニケ2:2)。パウロは伝道旅行を進めコリントにいたとき(使徒18:5)、テモテが戻ってきて、テサロニケ教会の人たちが迫害に負けず、信仰と愛に励んでいるとの報告を受けます(Tテサロニケ3:6)。パウロはその報告を聞いて喜び、またテサロニケ教会が抱えている課題もあることを聞いたので、それについての回答も書き送るために、この手紙が書かれました。
2.父なる神とキリストの中にある教会
パウロは、「父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ」と呼び掛けています。「とにある」とは、直訳すると「中にある」という意味です。教会は、同好会ではありません。父なる神が主イエスのもとに私たちを呼び集めてくださり、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、神の子としてくださり、神さまを「アバ父よ」と呼ぶことができるようにしてくださいました。こうして、父なる神と主イエスが握りしめていてくださる、それが教会です。だから、迫害の中でもテサロニケ教会は負けることがなかったのです。
3.恵みと平安
恵みとは、受けるに値しない者に与えられる神さまからのプレゼントです。この恵みが見えなくなると、不平や不満がわいてきます。受けるに値しない者をあえて選び、握りしめていてくださるという恵みを、はっきりと自覚していくということが大事なことです。
十字架の恵みによって私たちは罪を赦され、平安が与えられます。父なる神さまをまっすぐに見ることができるようにされるのです。赦された者は、赦す者とされていきます。こうして平和がつくられていくのです。

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2019年07月07日

「信仰の継承」

創世記25:1〜11 島津吉成師

1.アブラハムの再婚
アブラハムはサラの亡き後、ケトラをめとりました。私たちの感覚からすると、サラのことをずっと思って生涯を終える方が美しいように思いますが、晩年の生活を支えてくれる人が必要だったのかもしれません。結果として、ケトラとの間に子どもたちが生まれ、「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)という神さまの約束が、このようにして実現していったのでした。
2.アブラハムの生涯
8節を共同訳聖書はこのように訳しています。「アブラハムは良き晩年を迎え、老いた後、生涯を全うして息絶え、死んで先祖の列に加えられた」。
「人は生きてきたように死ぬ」と言われます。アブラハムのこのような生涯の終わり方は、彼がこれまでどのように生きてきたかの表われでした。
@罪の赦しによる平安に生きる
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(15:6)。アブラハムは、神さまの恵みを信じました。そのとき、神さまは彼を正しい者と認めてくださったのです。イエス・キリストの十字架が私の罪の身代わりだったということを信じるとき、神さまは私たちの罪を赦し、義と認めてくださいます。ここから、神さまの前に平安な心で生きる歩みが始まります。
A生涯を全うする
アブラハムは「生涯を全うし」た、と書かれています。人生の長い短いが問題なのではなく、大切なことは、神さまが与えてくださる務めを全うすることです。パウロはテモテに、「自分の務めを全うしなさい」(Uテモテ4:5)と勧めています。生かされているということは、使命が与えられているということです。与えられた務めを全うする、そのような生涯を歩み抜きたいものです。
B天の希望に生きる
ヘブル11章には、アブラハムなど信仰に生きた人たちのことを数え上げて、「彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(16)と記しています。アブラハムは、天の希望に生きたのです。
3.信仰の継承
アブラハムが死んだとき、イサクとイシマエルが彼を葬りました。イシマエルも、神さまの恵みの中にあるのです。神さまは、イサクを祝福されました。アブラハムに与えられた祝福が、イサクに受け継がれたのです。
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2019年06月30日

「祝福された結婚」

創世記24:1〜9 島津吉成師

1.祈り
アブラハムはイサクの嫁を探すために、しもべを故郷に遣わします。そのとき、アブラハムはしもべに言いました。「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」。主が先に行って、働いていてくださるのです。
しもべは、アブラハムの故郷に着くと、井戸のそばで祈りました。「私が水を飲ませてくださいと頼んだとき、『あなたのらくだにも飲ませましょう』と言う娘がいたら、その者こそ、イサクのために定められた者ということにしてください」。しもべは、このような心優しい人こそ、イサクの嫁にふさわしいと思ったのです。
2.祈りの答え
しもべがまだ祈り終えないうちに、リベカがやってきます。そして、しもべが「水を飲ませてください」と頼むと、彼に水を飲ませただけでなく、らくだにも水を汲んで飲ませてくれたのです。しもべが、彼女に「誰の娘か」と聞くと、何と、アブラハムの親族の娘であることがわかりました。それを知ったしもべは、主に感謝の祈りをささげます。
しもべは、彼女の家に行き、事の顛末を話します。すると、リベカの兄ラバンとリベカの父ベトエルは、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことはできません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」と答えます。さらに、翌日、しもべは、リベカを連れてすぐに帰らせてほしいと願い出ます。そのことをリベカに聞くと、リベカは「行きます」と答え、旅立つのです。
ここには、現代の結婚の状況とはかなり違った様子が書かれています。しかし、ここに、結婚の一番大事なことは何か、ということが記されているのです。それは、「神が合わせてくださった」という信仰です。これが、結婚生活を支えるのです。
3.見ていてくださる神
 62節以下には、イサクとリベカが出会い、彼らが互いに愛し合い、幸いな家庭を築いていった様子が美しく描かれています。62節には、「ベエル・ラハイ・ロイからきて」と書かれています。「ベエル・ラハイ・ロイ」とは、「私をご覧になる生きている方の井戸」という意味です。かつて、ハガルが逃げ出した時、神さまが彼女と出会ってくださった場所です。見ていてくださる神が、それぞれの人生を、支え、導いてくださるのです。
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2019年06月23日

「旅人、寄留者として生きる」

創世記23:1〜9 島津吉成師

1.サラの死
アブラハムの妻、サラが亡くなりました。長い年月、苦労を共にしてきた妻サラが亡くなったのです。アブラハムは、悲しみ泣きました。アブラハムにとって、妻サラを失うということがどんなに辛いことだったかということが、この短い言葉の中に表されています。キリスト者は、復活の希望に生きています。しかし、地上で再び愛する者の声を聞くことができないということは、やはり、大きな悲しみです。悲しいときに、それを抑えるのではなく、泣き、悲しむということは大事なことです。ですから、誰かが悲しんでいるときに、安易な励ましを語ることよりも、「泣く者と共に泣く」ということが大切です。
2.墓を求める
悲しみ泣いたアブラハムは、そこから立ち上がります。悲しみを十分に出すとき、不思議と立ち上がる力が与えられるのです。
アブラハムは、サラを葬る墓地を与えてほしいと、その地の人々に願い出ます。そのときアブラハムは、自分のことを「旅の者で寄留者ですが」と言っています。神さまを信じて生きる者にとって、本当の故郷は天の御国です。天の御国に国籍を持つ者として、この地上では、旅人であり、寄留者なのです。つまり、この地上の価値観に埋没しないで、この地上にあって、天の御国の市民として生きるのです。それが、「地の塩、世の光」としての生き方です。
地元の人は、「自分たちの墓地の中に葬りなさい」と提案します。これは、この地の人々の中に同化してしてしまうということにつながってしまいます。それでアブラハムは、エフロンという人が持っている畑の一部を買わせてほしい、と願い出ます。そして、法外な値段を要求されるのですが、きちんとした手続きをして、彼はその畑を買い取ります。ここに、天の御国の市民、この地上では寄留者として生きる者の生き方が示されています。犠牲を払ってでも、礼を尽くし、人々との良い関係を築き、責任を果たすことによって、証しを立てていくということです。
3.墓の意味
 @故人を偲び、感謝を新たにする場所。
 A復活の信仰を新たにする場所。イエスさまは、墓に葬られましたが、死を打ち破ってよみがえられました。この復活の恵みを私たちにも与えてくださるのです。私たちは、墓の前に立ち、この信仰を新たにするのです。
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2019年06月16日

「神が証ししてくださる」ヨハネ第一5:6〜12

私はここ2か月ほど、一つの賛美を歌い続けています。「御名を掲げて」という賛美です。その歌詞の中に「救いの道を 与えに」というフレーズがあります。こんな私のために、イエスさまがすべての栄光を捨てて、天から来てくださったのだと思ったら、嬉しかったです。喜びでした。
1.神のあかし
さて、今朝、与えられているヨハネ第一5章6〜12節には、「あかし」という言葉が繰り返し記されています。「あかし」とは、もともと裁判用語で、明確な根拠を示すことに用いられます。信仰が真実なものであるか、その確かさの根拠はどこにあるか、ということです。
6節に、そのあかしをするものは「御霊」である、と言われています。そして、そのすぐ後で「神のあかし」という言葉が繰り返し出てきます。つまり、神さまご自身があかししてくださるということです。人間のあかしに勝って、これほど確かなあかしはありません。ですから、神さまがあかししてくださることを、私たちは喜んで受け取るのです。
2.水と血と永遠のいのち
神さまがあかししてくださること、それが6節から語られている言葉です。「イエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」。水は洗礼、血は十字架を意味しています。イエスさまは、なぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。洗礼は罪ある人間がきよめていただくために受けるものです。イエスさまは神の御子であり、罪のないお方でしたが、そのイエスさまが洗礼を受けられたということは、イエスさまは罪人の仲間入りをしてくださった、ということです。
そして、イエスさまは十字架につけられ、血を流されました。すべての人の罪を担って、ご自分の命を捨てて、十字架ですべての罪を処分してくださったのです。こうして、イエスさまは私たちの罪が赦される道、私たちが神さまと交わることのできる道を開いてくださったのです。この水と血を通って勝利してくださったイエスさまが救い主であることを、御霊は、すなわち神さまはあかししてくださっているのです。
さらに、「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(11〜12)とあります。私たちに、永遠のいのち、死に勝ついのちが与えられていることを、神さまはあかししてくださっているのです。
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2019年06月09日

「聖霊によって誕生した教会」使徒2:1〜4、41〜47

1.弟子たちに聖霊が降る
イエスさまは弟子たちに、ご自分が天に帰られた後、別の助け主を送るから、祈って待つようにと言われました(ヨハネ14:16、使徒1:4)。イエスさまの言葉に従って、弟子たちが集まって祈っていたとき、聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは聖霊に満たされたのです。これがペンテコステの出来事です。
聖霊は、旧約聖書の時代にも特別な時に特別な人に与えられていました。しかし、このペンテコステ以降、イエスさまを信じるすべての人に聖霊は与えられているのです(Tコリント6:19)。
使徒2章2〜3節には、聖霊がどのようなお方かということが、風と炎と舌に譬えて語られています。
@風 
 聖書の原語では、「風」と訳されている言葉には、「息」という意味もあります。エゼキエル書には、枯れた骨に息が吹き込まれると生き返ったという幻のことが記されています(エゼキエル37章)。聖霊は、疲れ切った人にも新しい生命を与え、立ち上がらせてくださるお方です。
A炎
 炎は、物を焼き尽くします。聖霊は、罪を焼き尽くし、私たちの心をきよめてくださるお方です。
B舌
 聖霊は、私たちの言葉を変えてくださいます。不平と不満しか口から出ないような者を、賛美と感謝の言葉が出て来る者へと変えてくださるのです。特に、ペンテコステのとき、弟子たちは他国の言葉で語り出し、外国から来た人たちにも、彼らの話すことがわかった、ということが起きました。バベルの塔以来、言葉が違ってしまったため、人と人との間に壁ができてしまいました。聖霊は、その壁を除き、人と人との心が通じ合えるようにしてくださるのです。
2.教会の誕生
こうして、教会が誕生しました。その教会の様子が41節以下に書かれています。彼らは、「ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをして」いました。そして、互いに愛し合いました。このような教会に、主は仲間に加わる人々を送ってくださったのです。
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2019年06月02日

「光は闇の中に」 須郷裕介師

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの手紙第一 1章9節)


「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」(詩篇30篇5節)
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2019年05月26日

「主の山に備えあり」

創世記22:1〜19 島津吉成師

1.試練
創世記22章は、アブラハムの生涯のクライマックスだと言われます。神さまはアブラハムを試みられました。神さまは、試練を通してアブラハムの信仰をさらに高嶺へと引き上げられようとされたのです。
アブラハムへの試練、それは愛するひとり子イサクを燔祭としてささげよ、というものでした。燔祭は、動物などを焼き尽くして、神さまへのささげ物とするということです。神さまがこのようなことを命じられるとは、考えられないことです。わが子を殺すということ、しかも祝福を受け継ぐ子として神さまが与えてくださったイサクを殺すなどということは、とても受け入れられないことです。
2.アブラハムの信仰
ところが、アブラハムはこの神さまの命令に淡々と従います。内面では、大きな葛藤があったと思いますが、聖書はそのことに触れていません。聖書はアブラハムの信仰がどのようなものであったかを描き出すのです。自分が理解できないことであっても、神さまを信頼して従う、これがアブラハムに与えられた試練でした。アブラハムはイサクから「燔祭の小羊はどこにありますか」と聞かれたとき、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えています。「備える」と訳されている言葉には、「見る」という意味があります。彼は、「神さまが見ていてくださる」と答えたのです。自分には理解できない、自分の描いていた将来の計画も見えなくなってしまったという状況の中で、アブラハムは、神さまは見ていてくださる、そして最善の備えをしてくださっている、と信じたのです。
3.主の山に備えあり
 アブラハムは、神さまが示された山に着くと、イサクを縛り、刃物を振り上げます。そのとき、御使いがアブラハムを呼び、「わらべに手をかけてはならない」と言って止めます。アブラハムが目をあげて見ると、そこに一頭の雄羊がいました。彼はそれをイサクの代わりに燔祭としてささげました。そして、アブラハムはその所をアドナイ・エレ(主の山に備えあり)と呼んだのです。確かに、神さまは、見ていてくださり、備えていてくださるお方でした。アブラハムは、イサクをわが子として握りしめていました。その子を、ここで神さまにささげました。そして、神さまから預かった子としてイサクを受け取り直したのです。こうして、神さまはアブラハムの家庭を、祝福を受け継ぐ家庭としてきよめてくださったのです。
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2019年05月19日

「神はあなたと共におられる」

創世記21:22〜34 島津吉成師

1.寄留の地で
アブラハムは神さまに導かれて、神さまが示してくださる地に来ましたが、まだ一坪の土地も与えられていませんでした。彼は、言わば外国から来た人がそこで生活しているという状態だったのです。ですから、とても弱い立場でした。しかも、現地の人たちと井戸のことで争いがあったようです。アブラハムが掘った井戸が、現地の人たちに奪われてしまったのです。この地方は水が少ないので、せっかく掘った井戸が人に奪われてしまうということは大きな問題でした。
2.神はあなたと共におられる
この地方の王様であるアビメレクと軍勢の長ピコルが、アブラハムのところに来ました。そして、お互いに危害を加えない、という契約を結ぼうと提案します。アブラハムは、「わたしは誓います」と言ってその申し出を受け入れますが、アビメレクの部下たちによって奪われた井戸を返すように求めます。アビメレクは、そのことを知らなかったと言って言い逃れをしようとしますが、返すことを約束します。
どうして強い立場にあるアビメレクが、アブラハムとこのような契約を結ぼうとしたのでしょうか。それは、アビメレクが言った「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」という言葉に鍵があります。アビメレクはアブラハムの生活を見て、「神が彼と共におられる」ということを感じ、彼と争ったら大変なことになると思ったのでしょう。それは、アブラハムが立派だったからでしょうか。そうではないと思います。イサクの誕生が、アビメレクに強い印象を与えたのではないでしょうか。人間的には全く希望が持てない状態の中で、神さまが彼らに子どもを与えてくださったのです。そのことを見て、アビメレクは「神がアブラハムと共におられる」ということを感じたのだと思います。
3.イエス・キリストによって
 イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)を実現するために来てくださいました。私たちは、罪のために神さまとの関係が断絶していたのです。イエスさまが、その罪を代わりに負って十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪は赦され、神さまとの交わりが回復し、「神われらと共にいます」が実現したのです。こうして、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)と言われているように、私たちも力強く歩んで行くことができるのです。
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2019年05月12日

「恐れてはいけない」

創世記21:8〜21 島津吉成師
1.サラの訴えとアブラハムの心配(苦しみ)
アブラハムはイサクが乳離れしたとき、盛大なお祝い会をしました。当時は、3歳位が乳離れのときだったそうです。この喜びのときが、一転して苦しみのときとなってしまいました。サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサクと遊んでいるのをサラが見たのです。「遊ぶ」と訳されているところを、別の翻訳の聖書では「からかっている」と訳しています。サラは、アブラハムに訴えます。「このはしためとその子を追い出してください」。サラは、イシマエルが後継ぎとなることを恐れたのです。アブラハムは、イシマエルも自分の子どもなので、とても苦しみました。
2.心配することはない
そのとき神さまは、アブラハムに言われました。「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。アブラハムは神さまの約束を信じることができず、人間的な策をろうして生まれたのがイシマエルでした。信仰の父アブラハムは、不信仰から離れなければならなかったのです。これは、私たちの問題です。神さまを信じて、神さまに従うよりも、自分の計算で事を行ってしまっていることはないでしょうか。「あなたの内から、不信仰を追い出せ」と神さまは言っておられるのです。
神さまはアブラハムに、イシマエルのことも祝福してくださる、と約束してくださいました。失敗をして生じてしまった結果の中にも、神さまのあわれみのみ手が伸ばされているのです。
3.目を開かせてくださる神さま
追放されてしまったハガルとイシマエルは、荒野をさまよい、ついに皮袋の水が尽きてしまいました。イシマエルは声をあげて泣きました。そのとき、天の使いがハガルを呼びました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない」。神さまは、イシマエルも一つの国民とすると約束してくださっていました。ところが、ハガルはそのことを信じることができず、「もう終わりだ」と思ってしまっていたのです。神さまは彼女の目を開いてくださいました。すると、すぐ近くに井戸があるのに気づきました。もう駄目だと思うすぐそこに、神さまの救いは備えられていたのです。
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2019年05月05日

「笑わせてくださる神さま」

創世記21:1〜7 島津吉成師
1.笑い
神さまはアブラハムに、「あなたを祝福の基とする。あなたの子孫は夜空に輝く星のように多くなる」と約束してくださいました。ところが、アブラハムとサラの間には、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムに最初の約束が与えられたときが75歳で、子どもが与えられたのが百歳だったとありますから、実に25年間も待たされたわけです。子どもが与えられたということは、アブラハムとサラにとって、どんなに嬉しかったことでしょう。
神さまはアブラハムに、子どもの名前はイサクと名づけるようにと言われていました。イサクとは「笑い」という意味です。子どもが誕生する一年前、御使いが「来年の春、子どもが生まれている」と告げたとき、サラは笑いました。そのときの笑いは、「そんなこと、あるわけがない」という苦笑いでした。しかし、ここでの笑いは心からの喜びの笑いでした。「神はわたしを笑わせてくださった」のです。信仰生活は、苦虫を噛みつぶしたような顔で生きるのではなく、笑わせてくださる神さまの恵みの中で朗らかに歩む生活です。
2.アブラハムの信仰
ローマ人への手紙第4章に、アブラハムの信仰についてこう記されています。「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(4:19〜21)。
創世記に記されているアブラハムの歩みを見ると、彼は何度も不信仰に陥り、失敗を繰り返すようなことをしています。では、ローマ人への手紙に書かれていることは間違いなのでしょうか。そうではないのです。アブラハムが不信仰に陥ってしまうとき、失敗をしてしまうとき、いつも神さまはそのアブラハムに手を差し伸べ、彼を助け起こし、正しい道へと導いてくださいました。彼はその度に、心から悔い改め、神さまに立ち返りました。そのアブラハムを神さまは赦し、彼の信仰を受け入れてくださったのです。そして、神の約束を確信する者と見てくださるのです。こうして、アブラハムとサラを笑わせてくださった神さまが、私たちとも共にいてくださいます。私たちをも「祝福の基」としてくださるのです。
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2019年04月28日

「裁きと救い」

創世記19:15〜29 島津吉成師
1.ロト
ソドムの町の状態を探るために、二人の御使いがソドムに来ました。ソドムに住んでいたアブラハムの甥のロトは、彼らを家に招きます。ところが、町の人々は、二人を出せと要求します。「われわれは彼を知るであろう」と言っていますが、これは「性的な関係を持つ」という意味です。ソドムの人々は、そこまで堕落していたのです。「非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロト」(Uペテロ2:7)と言われていますので、ロトはそのような環境の中で、神さまを信じる者として悩みながら生活していたようです。ところが、彼の取った行動は、二人の客を守るために自分の娘を差し出すというものでした。客を守るという思いは正しかったとしても、彼のやろうとしたことは神さまに喜ばれることではありません。ソドムの人々は、ロトの言葉をはねつけて、ロト自身に危害を加えようとしました。そこで、御使いは人々の目をくらませ、ロトを救い出しました。そして御使いはロトに、「ソドムの町は滅ぼされる。だから身内の者を連れて、逃れるように」と告げます。ソドムの町には、アブラハムがとりなしの祈りで祈った10人の正しい人もいなかったのです。そこで、ロトは娘の婿たちにそのことを伝えます。ところが、彼らにはそれは「戯れごと」に思えたのです。普段の生活の中で、彼らには神さまのことが伝わっていなかったようです。
2.神さまのあわれみ
御使いはロトに早く逃げるように促しますが、ロトはためらっていました。すると御使いは、ロトとロトの妻とふたりの娘の手を取って町の外に連れ出しました。これは神さまのロトに対するあわれみでした。御使いは、「うしろを振り返らず、急いで、山に逃げるように」とロトに告げます。するとロトは、山までは遠いので、近くの町に逃れさせてくれるようにと頼みます。御使いは妥協してその頼みを聞き入れますが、このときのロトからは、必死に逃げなければならないという真剣さが伝わってきません。ロトたちが町に着いたとき、硫黄と火が天から降りかかりソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいました。そのとき、ロトの妻はうしろを振り向いたため、塩の柱になってしまいました。残してきたものに未練があったのでしょう。それが、彼女の滅びとなってしまいました。ロトは神さまを信じていないわけではありませんでしたが、その信仰は中途半端なものでした。ここに、アブラハムとの違いがあります。しかし、アブラハムのとりなしのゆえに、ロトは救われました。神さまは、そのようなロトも憐れんでくださったのです。
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2019年04月21日

「よみがえりの朝」

ルカ24:1〜12 島津吉成師
1.途方にくれる
マグダラのマリヤをはじめとする女性たちが、夜明け前に、香料を携えて、イエスさまが葬られた墓に行きました。イエスさまのおからだに香料を塗って、丁寧に埋葬したいと思ったのです。ところが、墓をふさいでいた石がころがしてあり、中に入ってみると、イエスさまのおからだが見当たりませんでした。彼女たちは、途方にくれてしまいました。敬愛するイエスさまが十字架につけられて殺されてしまったのです。彼女たちの悲しみはどんなに深かったことでしょう。その上、今度はイエスさまのおからだがなくなってしまったのです。彼女たちは、途方にくれてしまいました。
2.よみがえられたのだ
すると、御使いが現れて、彼女たちに言いました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
 イエスさまは、死を打ち破って、よみがえられたのです。私たちの人生が死で終わるとするならば、それは「途方にくれる」しかありません。人間の力では、どうすることもできないからです。しかしイエスさまは、人間にはどうすることもできない死を打ち破って、よみがえられました。そして、このイエスさまのよみがえりのいのちを私たちにも与えてくださるのです。ですから、死はすべての終わりではなくなりました。天国への入口となったのです。それだけでなく、イエスさまは、よみがえりのいのちを日々、私たちに注いでくださいます。ですから私たちは、「途方にくれる」ような状況にも打ち勝って歩むことができるのです。
3.思い出す
 使徒たちは、彼女たちから、イエスさまがよみがえられたという話を聞いても、それが愚かな話のように思われて、信じませんでした。でも、この女性たちは、御使いから「イエスさまが『必ずよみがえる』と言っておられたことを思い出しなさい」と言われて、そのことを思い出したのです。イエスさまが言われたことを「思い起こす」、これが復活信仰に生きる鍵です。イエスさまはよみがえられました。そして、今朝も、私たちと共にいてくださいます。
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2019年04月14日

「十字架のイエスさま」

ヨハネ19:23〜30 島津吉成師
イエスさまは十字架の上で、7つの言葉を話されました。そのうちの3つが、ここに記されています。
1.「これはあなたの子、これはあなたの母」
イエスさまは、イエスさまの十字架のそばにいた母マリヤとイエスさまの弟子のヨハネに言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。「ごらんなさい。これはあなたの母です」。イエスさまは、遺していく母マリヤのことを気遣い、弟子のヨハネにマリヤのことを託したのです。ここに、最後の最後まで母マリヤのことを愛しておられるイエスさまの姿を見ることができます。
この言葉には、もう一つの意味があると解釈されてきました。それは、「子」とは「私たち」のこと。「母」とは、「母なる教会」を表しているという解釈です。教会は、母のような存在です。神の子は、教会の交わりの中で養われ、育てられていくのです。イエスさまは、「あなたはわたしの愛する子だ。ここに、あなたの母なる教会がある」と言って、教会を与えてくださったのです。また、母なる教会の一員である私たちに、「ここに、あなたの子がいる」と言って、新しいメンバーを加えてくださるのです。
2.「わたしは、かわく」
神の子であるイエスさまは、人となり、私たちと同じ肉体をお持ちくださいました。そのイエスさまが十字架にかかり、「わたしは、かわく」と言われるほどに苦しんでくださったのです。こうしてイエスさまは、イエスさまご自身が苦しみの中を通られることによって、苦しむ者の苦しみを思いやり、本当の意味で苦しむ者を助けることのできる救い主となってくださったのです。(へブル2:18)
3.「すべてが終わった」
イエスさまは、「すべてが終わった」と言われて、息をひきとられました。別の翻訳の聖書では、ここを「完了した」「成し遂げられた」と訳されています。イエスさまは、すべての人の罪を代わりに負って死んでくださることによって、すべての人が救われる救いの御業を「成し遂げることができた」「完了した」と言われたのです。ですから、この言葉は敗北の言葉ではなく、勝利の宣言です。こうして、イエスさまは私たちが救われるためのすべてのことを成し遂げ、完了してくださったのです。
私たちは、このイエスさまを私の救い主と信じるとき、すべての罪が赦され、救われるのです。
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2019年04月07日

「心からのささげもの」

ヨハネ12:1〜11 島津吉成師

今年のイースターは4月21日になりますので、来週14日から受難週に入ります。そこで、今朝からイースターまでの間、創世記から離れて、福音書からイエスさまの十字架から復活へと至る道をたどります。今朝は、ベタニヤのマリヤがイエスさまに香油を注いだ出来事を通して、イエスさまが喜んでくださるささげものについて学びます。
1.感謝のささげもの
ベタニヤという村に、マルタとマリヤ、そしてラザロという3人の兄弟姉妹がいました。イエスさまは、彼らととても親しい交わりを持っていたようです。ところが、ラザロが病気で死んでしまったのです。ラザロが死んで4日目に、イエスさまが来られました。ラザロはすでに墓に葬られていましたが、イエスさまはラザロをよみがえらせてくださいました。マルタとマリヤの喜びは、どんなに大きかったことでしょう。彼女たちは、イエスさまを招いて、感謝会をしました。そのとき、マリヤが「高価で純粋なナルドの香油1斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた」のです。すると、香油の香りが家いっぱいに広がりました。マリヤは、イエスさまに対する心からの感謝を、このようにして表したのです。
2.高価で純粋なささげもの
この香油は、300デナリの価値があると言われています。1デナリが1日の賃金と言われていますので、およそ1年分の給料に値する高価なささげものでした。それは、彼女にとって精一杯のささげものでした。
また、これは純粋な香油でした。ここに、彼女の心が表されているように思います。気を付けないと、私たちがささげる奉仕の中に、「ほめられたい」というような打算が入り込んでしまうことがあります。でも彼女は、イエスさまに対する、純粋な、混じりけのない、感謝と愛の心をささげたのです。
3.イエスさまの葬りの備えとなったささげもの
彼女がイエスさまに香油を注いだことを、イエスさまは「わたしの葬りの日のために」してくれたのだ、と言って喜ばれました。死者を葬るときに、香油を塗るのが当時の習慣でした。イエスさまは、まもなく十字架につけられ、殺され、墓に葬られます。マリヤは、その準備をしてくれたのだ、と言われたのです。マリヤは、そのようなことは全く考えていなかったと思います。しかし、マリヤのささげものは、イエスさまの葬りの備えのために、ピッタリのタイミングで用いられたのです。私たちがさせていただく奉仕の業を、主は私たちの思いを超えて豊かに用いてくださるのです。
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