2019年06月09日

「聖霊によって誕生した教会」使徒2:1〜4、41〜47

1.弟子たちに聖霊が降る
イエスさまは弟子たちに、ご自分が天に帰られた後、別の助け主を送るから、祈って待つようにと言われました(ヨハネ14:16、使徒1:4)。イエスさまの言葉に従って、弟子たちが集まって祈っていたとき、聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは聖霊に満たされたのです。これがペンテコステの出来事です。
聖霊は、旧約聖書の時代にも特別な時に特別な人に与えられていました。しかし、このペンテコステ以降、イエスさまを信じるすべての人に聖霊は与えられているのです(Tコリント6:19)。
使徒2章2〜3節には、聖霊がどのようなお方かということが、風と炎と舌に譬えて語られています。
@風 
 聖書の原語では、「風」と訳されている言葉には、「息」という意味もあります。エゼキエル書には、枯れた骨に息が吹き込まれると生き返ったという幻のことが記されています(エゼキエル37章)。聖霊は、疲れ切った人にも新しい生命を与え、立ち上がらせてくださるお方です。
A炎
 炎は、物を焼き尽くします。聖霊は、罪を焼き尽くし、私たちの心をきよめてくださるお方です。
B舌
 聖霊は、私たちの言葉を変えてくださいます。不平と不満しか口から出ないような者を、賛美と感謝の言葉が出て来る者へと変えてくださるのです。特に、ペンテコステのとき、弟子たちは他国の言葉で語り出し、外国から来た人たちにも、彼らの話すことがわかった、ということが起きました。バベルの塔以来、言葉が違ってしまったため、人と人との間に壁ができてしまいました。聖霊は、その壁を除き、人と人との心が通じ合えるようにしてくださるのです。
2.教会の誕生
こうして、教会が誕生しました。その教会の様子が41節以下に書かれています。彼らは、「ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをして」いました。そして、互いに愛し合いました。このような教会に、主は仲間に加わる人々を送ってくださったのです。
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2019年06月02日

「光は闇の中に」 須郷裕介師

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)


「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの手紙第一 1章9節)


「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」(詩篇30篇5節)
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2019年05月26日

「主の山に備えあり」

創世記22:1〜19 島津吉成師

1.試練
創世記22章は、アブラハムの生涯のクライマックスだと言われます。神さまはアブラハムを試みられました。神さまは、試練を通してアブラハムの信仰をさらに高嶺へと引き上げられようとされたのです。
アブラハムへの試練、それは愛するひとり子イサクを燔祭としてささげよ、というものでした。燔祭は、動物などを焼き尽くして、神さまへのささげ物とするということです。神さまがこのようなことを命じられるとは、考えられないことです。わが子を殺すということ、しかも祝福を受け継ぐ子として神さまが与えてくださったイサクを殺すなどということは、とても受け入れられないことです。
2.アブラハムの信仰
ところが、アブラハムはこの神さまの命令に淡々と従います。内面では、大きな葛藤があったと思いますが、聖書はそのことに触れていません。聖書はアブラハムの信仰がどのようなものであったかを描き出すのです。自分が理解できないことであっても、神さまを信頼して従う、これがアブラハムに与えられた試練でした。アブラハムはイサクから「燔祭の小羊はどこにありますか」と聞かれたとき、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えています。「備える」と訳されている言葉には、「見る」という意味があります。彼は、「神さまが見ていてくださる」と答えたのです。自分には理解できない、自分の描いていた将来の計画も見えなくなってしまったという状況の中で、アブラハムは、神さまは見ていてくださる、そして最善の備えをしてくださっている、と信じたのです。
3.主の山に備えあり
 アブラハムは、神さまが示された山に着くと、イサクを縛り、刃物を振り上げます。そのとき、御使いがアブラハムを呼び、「わらべに手をかけてはならない」と言って止めます。アブラハムが目をあげて見ると、そこに一頭の雄羊がいました。彼はそれをイサクの代わりに燔祭としてささげました。そして、アブラハムはその所をアドナイ・エレ(主の山に備えあり)と呼んだのです。確かに、神さまは、見ていてくださり、備えていてくださるお方でした。アブラハムは、イサクをわが子として握りしめていました。その子を、ここで神さまにささげました。そして、神さまから預かった子としてイサクを受け取り直したのです。こうして、神さまはアブラハムの家庭を、祝福を受け継ぐ家庭としてきよめてくださったのです。
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2019年05月19日

「神はあなたと共におられる」

創世記21:22〜34 島津吉成師

1.寄留の地で
アブラハムは神さまに導かれて、神さまが示してくださる地に来ましたが、まだ一坪の土地も与えられていませんでした。彼は、言わば外国から来た人がそこで生活しているという状態だったのです。ですから、とても弱い立場でした。しかも、現地の人たちと井戸のことで争いがあったようです。アブラハムが掘った井戸が、現地の人たちに奪われてしまったのです。この地方は水が少ないので、せっかく掘った井戸が人に奪われてしまうということは大きな問題でした。
2.神はあなたと共におられる
この地方の王様であるアビメレクと軍勢の長ピコルが、アブラハムのところに来ました。そして、お互いに危害を加えない、という契約を結ぼうと提案します。アブラハムは、「わたしは誓います」と言ってその申し出を受け入れますが、アビメレクの部下たちによって奪われた井戸を返すように求めます。アビメレクは、そのことを知らなかったと言って言い逃れをしようとしますが、返すことを約束します。
どうして強い立場にあるアビメレクが、アブラハムとこのような契約を結ぼうとしたのでしょうか。それは、アビメレクが言った「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」という言葉に鍵があります。アビメレクはアブラハムの生活を見て、「神が彼と共におられる」ということを感じ、彼と争ったら大変なことになると思ったのでしょう。それは、アブラハムが立派だったからでしょうか。そうではないと思います。イサクの誕生が、アビメレクに強い印象を与えたのではないでしょうか。人間的には全く希望が持てない状態の中で、神さまが彼らに子どもを与えてくださったのです。そのことを見て、アビメレクは「神がアブラハムと共におられる」ということを感じたのだと思います。
3.イエス・キリストによって
 イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)を実現するために来てくださいました。私たちは、罪のために神さまとの関係が断絶していたのです。イエスさまが、その罪を代わりに負って十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪は赦され、神さまとの交わりが回復し、「神われらと共にいます」が実現したのです。こうして、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)と言われているように、私たちも力強く歩んで行くことができるのです。
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2019年05月12日

「恐れてはいけない」

創世記21:8〜21 島津吉成師
1.サラの訴えとアブラハムの心配(苦しみ)
アブラハムはイサクが乳離れしたとき、盛大なお祝い会をしました。当時は、3歳位が乳離れのときだったそうです。この喜びのときが、一転して苦しみのときとなってしまいました。サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサクと遊んでいるのをサラが見たのです。「遊ぶ」と訳されているところを、別の翻訳の聖書では「からかっている」と訳しています。サラは、アブラハムに訴えます。「このはしためとその子を追い出してください」。サラは、イシマエルが後継ぎとなることを恐れたのです。アブラハムは、イシマエルも自分の子どもなので、とても苦しみました。
2.心配することはない
そのとき神さまは、アブラハムに言われました。「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。アブラハムは神さまの約束を信じることができず、人間的な策をろうして生まれたのがイシマエルでした。信仰の父アブラハムは、不信仰から離れなければならなかったのです。これは、私たちの問題です。神さまを信じて、神さまに従うよりも、自分の計算で事を行ってしまっていることはないでしょうか。「あなたの内から、不信仰を追い出せ」と神さまは言っておられるのです。
神さまはアブラハムに、イシマエルのことも祝福してくださる、と約束してくださいました。失敗をして生じてしまった結果の中にも、神さまのあわれみのみ手が伸ばされているのです。
3.目を開かせてくださる神さま
追放されてしまったハガルとイシマエルは、荒野をさまよい、ついに皮袋の水が尽きてしまいました。イシマエルは声をあげて泣きました。そのとき、天の使いがハガルを呼びました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない」。神さまは、イシマエルも一つの国民とすると約束してくださっていました。ところが、ハガルはそのことを信じることができず、「もう終わりだ」と思ってしまっていたのです。神さまは彼女の目を開いてくださいました。すると、すぐ近くに井戸があるのに気づきました。もう駄目だと思うすぐそこに、神さまの救いは備えられていたのです。
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2019年05月05日

「笑わせてくださる神さま」

創世記21:1〜7 島津吉成師
1.笑い
神さまはアブラハムに、「あなたを祝福の基とする。あなたの子孫は夜空に輝く星のように多くなる」と約束してくださいました。ところが、アブラハムとサラの間には、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムに最初の約束が与えられたときが75歳で、子どもが与えられたのが百歳だったとありますから、実に25年間も待たされたわけです。子どもが与えられたということは、アブラハムとサラにとって、どんなに嬉しかったことでしょう。
神さまはアブラハムに、子どもの名前はイサクと名づけるようにと言われていました。イサクとは「笑い」という意味です。子どもが誕生する一年前、御使いが「来年の春、子どもが生まれている」と告げたとき、サラは笑いました。そのときの笑いは、「そんなこと、あるわけがない」という苦笑いでした。しかし、ここでの笑いは心からの喜びの笑いでした。「神はわたしを笑わせてくださった」のです。信仰生活は、苦虫を噛みつぶしたような顔で生きるのではなく、笑わせてくださる神さまの恵みの中で朗らかに歩む生活です。
2.アブラハムの信仰
ローマ人への手紙第4章に、アブラハムの信仰についてこう記されています。「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(4:19〜21)。
創世記に記されているアブラハムの歩みを見ると、彼は何度も不信仰に陥り、失敗を繰り返すようなことをしています。では、ローマ人への手紙に書かれていることは間違いなのでしょうか。そうではないのです。アブラハムが不信仰に陥ってしまうとき、失敗をしてしまうとき、いつも神さまはそのアブラハムに手を差し伸べ、彼を助け起こし、正しい道へと導いてくださいました。彼はその度に、心から悔い改め、神さまに立ち返りました。そのアブラハムを神さまは赦し、彼の信仰を受け入れてくださったのです。そして、神の約束を確信する者と見てくださるのです。こうして、アブラハムとサラを笑わせてくださった神さまが、私たちとも共にいてくださいます。私たちをも「祝福の基」としてくださるのです。
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2019年04月28日

「裁きと救い」

創世記19:15〜29 島津吉成師
1.ロト
ソドムの町の状態を探るために、二人の御使いがソドムに来ました。ソドムに住んでいたアブラハムの甥のロトは、彼らを家に招きます。ところが、町の人々は、二人を出せと要求します。「われわれは彼を知るであろう」と言っていますが、これは「性的な関係を持つ」という意味です。ソドムの人々は、そこまで堕落していたのです。「非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロト」(Uペテロ2:7)と言われていますので、ロトはそのような環境の中で、神さまを信じる者として悩みながら生活していたようです。ところが、彼の取った行動は、二人の客を守るために自分の娘を差し出すというものでした。客を守るという思いは正しかったとしても、彼のやろうとしたことは神さまに喜ばれることではありません。ソドムの人々は、ロトの言葉をはねつけて、ロト自身に危害を加えようとしました。そこで、御使いは人々の目をくらませ、ロトを救い出しました。そして御使いはロトに、「ソドムの町は滅ぼされる。だから身内の者を連れて、逃れるように」と告げます。ソドムの町には、アブラハムがとりなしの祈りで祈った10人の正しい人もいなかったのです。そこで、ロトは娘の婿たちにそのことを伝えます。ところが、彼らにはそれは「戯れごと」に思えたのです。普段の生活の中で、彼らには神さまのことが伝わっていなかったようです。
2.神さまのあわれみ
御使いはロトに早く逃げるように促しますが、ロトはためらっていました。すると御使いは、ロトとロトの妻とふたりの娘の手を取って町の外に連れ出しました。これは神さまのロトに対するあわれみでした。御使いは、「うしろを振り返らず、急いで、山に逃げるように」とロトに告げます。するとロトは、山までは遠いので、近くの町に逃れさせてくれるようにと頼みます。御使いは妥協してその頼みを聞き入れますが、このときのロトからは、必死に逃げなければならないという真剣さが伝わってきません。ロトたちが町に着いたとき、硫黄と火が天から降りかかりソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいました。そのとき、ロトの妻はうしろを振り向いたため、塩の柱になってしまいました。残してきたものに未練があったのでしょう。それが、彼女の滅びとなってしまいました。ロトは神さまを信じていないわけではありませんでしたが、その信仰は中途半端なものでした。ここに、アブラハムとの違いがあります。しかし、アブラハムのとりなしのゆえに、ロトは救われました。神さまは、そのようなロトも憐れんでくださったのです。
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2019年04月21日

「よみがえりの朝」

ルカ24:1〜12 島津吉成師
1.途方にくれる
マグダラのマリヤをはじめとする女性たちが、夜明け前に、香料を携えて、イエスさまが葬られた墓に行きました。イエスさまのおからだに香料を塗って、丁寧に埋葬したいと思ったのです。ところが、墓をふさいでいた石がころがしてあり、中に入ってみると、イエスさまのおからだが見当たりませんでした。彼女たちは、途方にくれてしまいました。敬愛するイエスさまが十字架につけられて殺されてしまったのです。彼女たちの悲しみはどんなに深かったことでしょう。その上、今度はイエスさまのおからだがなくなってしまったのです。彼女たちは、途方にくれてしまいました。
2.よみがえられたのだ
すると、御使いが現れて、彼女たちに言いました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
 イエスさまは、死を打ち破って、よみがえられたのです。私たちの人生が死で終わるとするならば、それは「途方にくれる」しかありません。人間の力では、どうすることもできないからです。しかしイエスさまは、人間にはどうすることもできない死を打ち破って、よみがえられました。そして、このイエスさまのよみがえりのいのちを私たちにも与えてくださるのです。ですから、死はすべての終わりではなくなりました。天国への入口となったのです。それだけでなく、イエスさまは、よみがえりのいのちを日々、私たちに注いでくださいます。ですから私たちは、「途方にくれる」ような状況にも打ち勝って歩むことができるのです。
3.思い出す
 使徒たちは、彼女たちから、イエスさまがよみがえられたという話を聞いても、それが愚かな話のように思われて、信じませんでした。でも、この女性たちは、御使いから「イエスさまが『必ずよみがえる』と言っておられたことを思い出しなさい」と言われて、そのことを思い出したのです。イエスさまが言われたことを「思い起こす」、これが復活信仰に生きる鍵です。イエスさまはよみがえられました。そして、今朝も、私たちと共にいてくださいます。
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2019年04月14日

「十字架のイエスさま」

ヨハネ19:23〜30 島津吉成師
イエスさまは十字架の上で、7つの言葉を話されました。そのうちの3つが、ここに記されています。
1.「これはあなたの子、これはあなたの母」
イエスさまは、イエスさまの十字架のそばにいた母マリヤとイエスさまの弟子のヨハネに言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。「ごらんなさい。これはあなたの母です」。イエスさまは、遺していく母マリヤのことを気遣い、弟子のヨハネにマリヤのことを託したのです。ここに、最後の最後まで母マリヤのことを愛しておられるイエスさまの姿を見ることができます。
この言葉には、もう一つの意味があると解釈されてきました。それは、「子」とは「私たち」のこと。「母」とは、「母なる教会」を表しているという解釈です。教会は、母のような存在です。神の子は、教会の交わりの中で養われ、育てられていくのです。イエスさまは、「あなたはわたしの愛する子だ。ここに、あなたの母なる教会がある」と言って、教会を与えてくださったのです。また、母なる教会の一員である私たちに、「ここに、あなたの子がいる」と言って、新しいメンバーを加えてくださるのです。
2.「わたしは、かわく」
神の子であるイエスさまは、人となり、私たちと同じ肉体をお持ちくださいました。そのイエスさまが十字架にかかり、「わたしは、かわく」と言われるほどに苦しんでくださったのです。こうしてイエスさまは、イエスさまご自身が苦しみの中を通られることによって、苦しむ者の苦しみを思いやり、本当の意味で苦しむ者を助けることのできる救い主となってくださったのです。(へブル2:18)
3.「すべてが終わった」
イエスさまは、「すべてが終わった」と言われて、息をひきとられました。別の翻訳の聖書では、ここを「完了した」「成し遂げられた」と訳されています。イエスさまは、すべての人の罪を代わりに負って死んでくださることによって、すべての人が救われる救いの御業を「成し遂げることができた」「完了した」と言われたのです。ですから、この言葉は敗北の言葉ではなく、勝利の宣言です。こうして、イエスさまは私たちが救われるためのすべてのことを成し遂げ、完了してくださったのです。
私たちは、このイエスさまを私の救い主と信じるとき、すべての罪が赦され、救われるのです。
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2019年04月07日

「心からのささげもの」

ヨハネ12:1〜11 島津吉成師

今年のイースターは4月21日になりますので、来週14日から受難週に入ります。そこで、今朝からイースターまでの間、創世記から離れて、福音書からイエスさまの十字架から復活へと至る道をたどります。今朝は、ベタニヤのマリヤがイエスさまに香油を注いだ出来事を通して、イエスさまが喜んでくださるささげものについて学びます。
1.感謝のささげもの
ベタニヤという村に、マルタとマリヤ、そしてラザロという3人の兄弟姉妹がいました。イエスさまは、彼らととても親しい交わりを持っていたようです。ところが、ラザロが病気で死んでしまったのです。ラザロが死んで4日目に、イエスさまが来られました。ラザロはすでに墓に葬られていましたが、イエスさまはラザロをよみがえらせてくださいました。マルタとマリヤの喜びは、どんなに大きかったことでしょう。彼女たちは、イエスさまを招いて、感謝会をしました。そのとき、マリヤが「高価で純粋なナルドの香油1斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた」のです。すると、香油の香りが家いっぱいに広がりました。マリヤは、イエスさまに対する心からの感謝を、このようにして表したのです。
2.高価で純粋なささげもの
この香油は、300デナリの価値があると言われています。1デナリが1日の賃金と言われていますので、およそ1年分の給料に値する高価なささげものでした。それは、彼女にとって精一杯のささげものでした。
また、これは純粋な香油でした。ここに、彼女の心が表されているように思います。気を付けないと、私たちがささげる奉仕の中に、「ほめられたい」というような打算が入り込んでしまうことがあります。でも彼女は、イエスさまに対する、純粋な、混じりけのない、感謝と愛の心をささげたのです。
3.イエスさまの葬りの備えとなったささげもの
彼女がイエスさまに香油を注いだことを、イエスさまは「わたしの葬りの日のために」してくれたのだ、と言って喜ばれました。死者を葬るときに、香油を塗るのが当時の習慣でした。イエスさまは、まもなく十字架につけられ、殺され、墓に葬られます。マリヤは、その準備をしてくれたのだ、と言われたのです。マリヤは、そのようなことは全く考えていなかったと思います。しかし、マリヤのささげものは、イエスさまの葬りの備えのために、ピッタリのタイミングで用いられたのです。私たちがさせていただく奉仕の業を、主は私たちの思いを超えて豊かに用いてくださるのです。
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