2019年01月13日

「主の憐れみ」

創世記12:10〜20 島津吉成師
1.ききん
アブラハムは、神さまから示された地に来ましたが、そこでききんに会いました。信仰生活には、何も問題が起こらないということはありません。アブラハムにききんが訪れたように、私たちの信仰生活にも試練がやって来ることがあります。
そこで、アブラハムはエジプトに避難することにします。しかし、彼がこの決断をするにあたって、今までのように「祭壇を築いた」ということが書かれていません。どうも、彼は、神さまにお祈りをしないで、自分で決めてしまったようです。そのために、彼の心に不安が襲ってきました。それは、妻のサライが美しかったので、夫の自分が殺されて、妻を略奪されるのではないか、ということでした。そこで、彼は妻のサライに、自分の妹だと言ってほしいと頼みます。これは、まったくの「うそ」ではありませんでした。サライは、異母妹(20:12)だったからです。しかし、妻なのですから、やはりこれは自分の身を守るための「うそ」でした。エジプトに着くと、サライは、なんとエジプトの王様に見染められて、王宮に召し入れられてしまいます。そして、アブラハムは王様からたくさんのプレゼントを貰うのです。表面的にはうまくいったようです。しかし、これでよかったのでしょうか。「祝福の基となる」という主の約束は、どうなってしまうのでしょうか。
2.ところで主は
この危機的な時に、神さまが介入されます。「ところで主は!」真っ暗な世界に、突然、光が差し込んだのです。しかし、その介入の仕方は私たちの予想に反するものです。なんと、神さまはエジプトの王様の方を打たれたのです。罰すべきは、アブラハムの方ではなかったでしょうか。なぜ、エジプトの王様の方を打たれたのでしょうか。一つのことは、サライを救うためには、エジプトの王様の方を打つしかなかったということがあります。でも、もう一つ、大事なことがここに込められています。それは、神さまは憐れみのお方だということです。考えてみてください。私たちは罪人です。私たちが打たれるべき者でした。しかし、父なる神さまは、御子イエスさまを打たれたのです。そして、私たちを救ってくださったのです。
このとき、アブラハムの心境はどんなだったでしょうか。きっと、自らの不信仰を恥じたことと思います。ですから、彼は、初めに築いた祭壇の所に戻って祈りました(13:4)。初心に立ち返ったのです。
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2019年01月06日

「出発」

創世記12:1〜9 島津吉成師
 神さまは、アブラハムを召し、ここから新しい時代を始めてくださいました。
1.召命
アブラハムはこのとき、75歳という高齢でした。また彼らには子どもがいませんでした。人間的な計算では、「祝福の基」となるには、とてもふさわしい人物とは思えません。しかし、神さまは彼を召されたのです。神さまは人間的な計算を超えたことをしてくださるのです。
神さまは、まず、アブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラハムが住んでいた所は偶像礼拝の盛んな所でした。神さまは、神さまに喜ばれないものから離れなさい、と言われたのです。
2.約束
旅立つに当たって、神さまはアブラハムに約束を与えてくださいました。それは、アブラハムを通して多くの子孫が与えられるということ、また、彼を祝福して、良いものを豊かに与えてくださるということ、さらに、祝福の基となる、つまり、彼を通して多くの人々が神さまの祝福にあずかるようになる、ということでした。アブラハムは、神さまの祝福をいただき、その祝福を人々に伝えるために召されたのです。
ここに、私たちの使命もあります。神さまは私たちを祝福してくださいます。それは、私たちが神さまの素晴らしさを体験し、それを多くの人々に伝えるためなのです。
3.出発
アブラハムは、神さまが「行きなさい」と言われた言葉に従って出発しました。そのとき、アブラハムは75歳でした。彼は、「新しいことを始めるのは、もう遅い」とは言いませんでした。神さまは、そのような人を用いてくださいます。
このとき、甥のロトもアブラハムについて行きました。ロトが一緒だったことによって、アブラハムはこれから面倒な問題に直面します。アブラハムはカナンの地に着くと、そこに祭壇を築いて神さまを礼拝しました。信仰生活とは、面倒な問題がなくなることではなく、様々な問題がある中で、そのど真ん中で、神さまに礼拝をささげていくことなのです。そうしていくときに、私たちは、問題の中で神さまの働きを体験し、こうして、神さまの祝福をいただき、神さまの祝福を証ししていく者とされるのです。
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2019年01月01日

「祝福の基」

創世記12:1〜3 島津吉成師
新しい年、信仰の父といわれるアブラハムの生涯を学びつつ、礼拝をささげていきたいと願っています。
1.祝福とは
祝福とは、「愛なる神さまが豊かな恵みを与えてくださる」ということです。神さまは私たちを愛してくださって、「あなたを恵むよ」と宣言してくださっているのです。人は神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる、ここに祝福された人間の本来の姿があるのです。しかし人間は、神さまの愛に背を向け、自分勝手な歩みを始めてしまいました。11章には、バベルの塔のことが書かれています。彼らは「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」(11:4)と言って塔の建設を始めました。これは、「自分こそ神だ」と言う、高慢になった人間の姿です。
このような暗黒の時代に、神さまは一人の人を選ばれました。そして、彼を通して、もう一度、神さまの愛に包まれ、神さまが与えてくださる恵みの中で、感謝と喜びをもって神さまから与えられた使命に生きる民を造ろうとされたのです。
2.祝福の約束
神さまはアブラハムに言われました。@「わたしはあなたを大いなる国民とする」。神さまは、彼に多くの子孫を与えると約束してくださいました。彼を通してイスラエルの民が生まれました。さらに、キリストを信じる者はアブラハムの子孫だと言われています(ガラテヤ3:29)。A「あなたを祝福し」。神さまはアブラハムに豊かな恵みを与えてくださると約束してくださいました。B「あなたの名を大きくしよう」。アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれるようになります。
 ただし、祝福は、すぐにわかる形で与えられるとは限りません。「どうして?」と思うことの中に、そこでしか知ることのできない宝が隠されているのです。アブラハムも、このような神の祝福を体験し、成熟していくのです。
3.祝福の基
アブラハムが祝福されたのは、彼によってすべての人々が祝福にあずかるためでした。しかし、それは彼が立派だったからということではありません。彼は失敗することもありました。でも、その度に彼は神に立ち返りました。その姿を通して、祝福が人々に伝わっていったのです。
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2018年12月30日

「岩の上に家を」

マタイ7:24〜29 島津吉成師
今年 の初めから山上の説教を学んできましたが、いよいよ、最後の結論の部分となりました。
1.嵐が来る
イエスさまは、ここで、賢い人と愚かな人について語っておられます。賢い人も愚かな人も、同じように家を建てました。これは、それぞれが自分の人生を建て上げていくということを言われているのだと思います。家を建て上げたとき、嵐がやってきました。賢い人にも、愚かな人にも、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹く」と、同じ言葉で嵐が来ることが言われています。これは、人生には、苦難や試練の時が来る、ということを言っているのでしょう。特に、同じ言葉で言われているので、誰にでも平等に訪れる、最大の試練である「死」のことが言われているのだと思います。
嵐が襲ってきたときに、賢い人の家は倒れませんでしたが、愚かな人の家は倒れてしまいました。何もないときには、賢い人と愚かな人の違いはわかりません。しかし、嵐が来たときに、その真価が問われます。嵐が来ても倒れない、そのような人生を建て上げているか、とイエスさまは問うておられるのです。
2.揺るがない土台
では、賢い人と愚かな人の違いは、何だったのでしょうか。それは、イエスさまの言葉を聞いて行う人と行わない人の違いだと、イエスさまは言われました。イエスさまの言葉を聞いて行う人は、自分の人生を岩の上に建てるようなもの、反対に、イエスさまの言葉を聞いても行わない人は、自分の人生を砂の上に建てるようなものだ、と言われるのです。「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:22)と言われているように、み言葉を聞いて、それを実行していくことが大事なのです。
その上で、もう一つの問いがあります。それは、ここでは、私たちの実行力だけが問われているのだろうか、ということです。大事なことは、イエスさまの言葉を、どのような言葉として聞くか、ということが問われているのです。イエスさまは、「権威ある者」として教えられたとあります。それは、救いをもたらす神の言葉として語られたということです。聖書を神の言葉として聞く、これこそが嵐にも揺るがない土台です。そして、神の言葉として聞くときに、聞くだけで終わるはずはないのです。さらに、ルカによる福音書では、「地を深く掘り」(ルカ6:48)と書かれています。み言葉を深く掘りましょう。命の泉はそこから湧いてくるのです。
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2018年12月23日

「きょう、救いがこの家にきた」

ルカ19:1〜10 島津吉成師
今朝は、主イエスのご降誕を祝い、感謝するクリスマスの礼拝です。イエスさまは何のために来てくださったのでしょうか。イエスさまは言われました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
1.ザアカイ
@ザアカイは、取税人のかしらで、お金持ちでした。当時、取税人はローマ帝国の手先ということで、また、取り立てたお金で私腹を肥やしたりしていたので、人々から嫌われていました。
Aザアカイは、「背が低かった」と書かれています。きっと、これが彼のコンプレックスになっていたのだと思います。このコンプレックスをバネにして、彼は人に嫌われても、がむしゃらに頑張って、現在の地位と富とを手に入れたのではないでしょうか。しかし、それらでは、彼の心は満たされませんでした。
Bザアカイは、イエスさまが来られると聞いて、ぜひお目にかかりたい、と思いましたが、道はすでに人でいっぱいで見ることができません。そこで彼は、木に登ってイエスさまを見ようとしました。それほどに、彼はイエスさまとお会いしたかったのです。
2.ザアカイよ、急いで下りてきなさい
@イエスさまは、木に登っているザアカイに、「ザアカイよ」と呼びかけられました。イエスさまは、ザアカイのことを知っていてくださったのです。
Aイエスさまは、「あなたの家に泊まることにしている」と言われました。孤独なザアカイのことを、イエスさまは愛してくださっていたのです。ザアカイは喜んでイエスさまを迎えました。こうして、イエスさまは、彼を尋ね出し、救ってくださったのです。
3.変えられたザアカイ
@ザアカイはイエスさまの愛を知って、劣等感から解放されました。もはや、人と比較して生きる必要はなくなったのです。
Aザアカイは、「財産の半分を貧しい人に施す。不正な取り立てをしていたら、4倍にして返す」と言いました。彼は、「受けるよりは与える方が、さいわいである」という人に変えられたのです。
B「きょう、救いがこの家にきた」と言われているように、ザアカイが変えられたことを通して、家族も救われたのです。
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2018年12月16日

「実によって見わけなさい」

マタイ7:15〜23 島津吉成師
 山上の説教も、いよいよ終わりに近づいてきました。イエスさまは、ここで警告を与えておられます。それは、にせ預言者がいるということです。
1.にせ預言者に警戒せよ
にせ預言者とは、間違ったことを教える人です。私たちがゴール(天国)に行けないように邪魔をする働きです。サタンの働きと言っても良いでしょう。にせ預言者は、羊の衣を着て近づいてくると言われています。いかにもサタンだという姿ではなく、とても優しそうな姿で来るのです。
そこで、「実によって見わけなさい」と言われています。実によって見わけるとは、どういうことでしょう。「父の御旨を行う者だけが天国にはいることができる」と言われていますが、にせ預言者はその逆のことを教えるのです。ですから、実によって見わけるとは、父なる神さまの御旨に添ったことを教えているか、そこからそらすようなことを教えているか、それによって見わけなさい、ということです。にせ預言者は、山上の説教の教えから私たちをそらそうとするのです。
2.にせ預言者の働き
では、にせ預言者の働きとはどんな働きなのでしょうか。
@聖書のみ言葉に対して、疑いや不信の種を蒔く。
A狭い門から入らなくても良い、と勧める。心の貧しい者であることを認め、罪を悲しみ悔い改める、そのような狭い門から入る必要はないと教える。
Bたくさんの人が行く、広い道を行こう、と勧める。
C神さまに頼らなくても、自分の力でできる、とそそのかす。
D失望した時、もう駄目だと思わせる。
E素晴らしいことをしても、それを父なる神さまのみ旨とは違う形で行うように仕向ける。多くの場合、神さまの栄光よりも自分の誉れを求める。
3.良い実を結ぶ良い木
心を貧しくし、罪を悲しみ、悔い改めるとき、父なる神さまは、私たちの罪を赦し、神の子としてくださいます。そして、家畜小屋の飼葉おけの中にまで降りて来てくださったイエスさまは、私たちの心の内にも宿ってくださいます。こうして、私たちを良い実を結ぶ良い木としてくださるのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とイエスさま言われました。イエスさまにつながっていましょう。それは礼拝の場に身を置くということです。良い実はそこから結ばれていきます。
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2018年12月09日

「狭い門からはいれ」

マタイ7:13〜14 島津吉成師
「狭い門」という言葉は、入学試験などで入学が難しい学校を表す言葉などにも使われたりします。では、イエスさまが言われた「狭い門からはいれ」とは、どういう意味なのでしょうか。
1.狭い門と広い門
ここには、「狭い門」と「広い門」ということが言われています。広い門は、大きな門で、その門を入って行くと道も広々としています。ですから、その門から入って行く人がたくさんいます。しかし、その行きつく先は滅びだというのです。それに対して、狭い門は、道も細いので、それを見つける人は少ないのです。でも、その門こそ、命への門なのです。
ここで、「狭い門」「細い道」と言われているのは、イエスさまがこれまで山上の説教で教えてくださった父なる神さまを信じる者の生きる道ということです。それは、心を貧しくして、神さまの前に謙虚な人、自分の罪を悲しんで悔い改める人、神さまから柔和な心をいただいて柔和に生きる人です。父なる神さまからゆるされた恵みを感謝して、人々のあやまちをゆるす人です。まず、神の国と神の義を求める人です。明日の思い煩いを父なる神さまにゆだねる人です。自分が人からしてほしいと望むことを、人にもそのとおりにする人、つまり、自分を愛するように人々を愛する人です。ここに、命に至る道があるとイエスさまは言われるのです。
ところが、多くの人は、この道を行こうとしません。神さまに喜ばれる道よりも目先の利益、目先の楽しさを求めてしまうのです。その行きつく先は滅びだとイエスさまは警告しておられます。
2.狭い門からはいれ
イエスさまは、「狭い門からはいれ」と言われました。ここは、山上の説教の結論の部分です。「良いお話を聞きました」で終わってはいけないのです。聞いたことに対して、応答しなければなりません。イエスさまは私たちを、狭い門、命への道へと招いてくださっているのです。
その道は、たくさんの人々が行く道ではありません。ですから、同調圧力が強い日本の社会の中では、この狭い道を行くには勇気がいります。しかし、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言ってくださるイエスさまが、どんなときにも共にいてくださり、一歩一歩の歩みを導いてくださり、命へと至らせてくださるのです。これこそ、本当に「さいわい」な人生の道です。狭い門からはいりましょう。
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2018年12月02日

「求めよ」

マタイ7:7〜12 島津吉成師
山上の説教を少しずつ学んできましたが、いよいよ結論の部分に入ります。
1.求めよ
イエスさまは、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われました。イエスさまは、「今、あなたが必要としているものは何ですか。父なる神さまにお祈りしてごらん。きっと、与えられるよ」と言われたのです。父なる神さまに大胆に求めましょう。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」と、イエスさまは言われました。
2.良い贈り物
さらに、イエスさまは言われました。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」。
お祈りして求めたけれども、それが与えられなかった、という経験をしたことがあるかもしれません。それに対して、イエスさまは言われるのです。「人間の親だって、子どもがパンを求めるのに、石を与えるようなことはしない。魚を求めるのに、へびを与えるようなことはしない。そうだとしたら、なおさら、父なる神さまは、求めてくる者に良いものをくださらないはずがないではないか。だから、祈っても与えられなかったということではない。あなたが求めるものよりも、こっちの方がもっと良いものだよ、というものを父なる神さまは与えてくださるのだ」と言われたのです。
3.愛に生きる
イエスさまは、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」と言われました。「律法であり預言者である」とは、旧約聖書という意味で、「これが、聖書が教えている中心的なことだ」と言われたのです。「人からしてほしいと思うこと」とは何でしょうか。突き詰めると、「愛される」ということではないでしょうか。「だから、あなたも人を愛する、そのような生き方をしなさい」と言われるのです。そして、「その愛を求めなさい、必ず与えられる」とイエスさまは言われたのです。
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2018年11月25日

「ここに愛がある

ヨハネ第一4:7〜10 島津吉成師
愛の手紙と呼ばれる、このヨハネの手紙を書いたヨハネは、かつては「雷の子」と呼ばれた人物でした。その彼が、愛の人に変えられたのです。
1.人間の悲惨
ハイデルベルク信仰問答をわかりやすく記した、「ハイデルベルク信仰問答によるキリスト教の信仰の学び」という本があります。この本の「人間の悲惨について」の箇所で、人間の罪の現実がこう記されています。「わたしの本性は、わたしに隣人を愛さないで憎むようにさせるのです。それは、わたしがいつも自分の利益を求めているからです。わたしは神を愛さないで、自ら神になろうとする欲求を、心の内に持っています。わたしは自分でどうしても神になることができないので、わたしの心の中に、しばしば神に対する敵意を、いや、憎しみさえ覚えるのです。ですから、わたしは、本来、神と隣人を憎む傾向にあることを認めないわけにはいきません。」神を憎み、人を憎むようになってしまっている、ここに、人間の悲惨を見ると記されているのです。
2.ここに愛がある
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」(9)。神さま抜きの自分勝手な人生を歩んでいた者、神さまの前には死んだも同然の者のために、神さまはそのひとり子をつかわしてくださいました。「それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされた」(9後半)のです。10節には「ここに愛がある」と宣言されています。神さまは、イエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださったことによって、愛を実行してくださいました。みずみずしいいのちを失い、硬い心しか持ち合わせなかった者が、この神の愛に触れ、主イエスを信じる恵みにあずかるとき、みずみずしいいのちにあずかり、愛を語る者へと変えていただけるのです。
3.互いに愛し合おう
「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか」(7)。「互いに愛し合う」ということは、「さあ、神を知ろう。神を礼拝しよう」ということと同じことだと、私はある本を読んでいて知ることができました。ややこしい人間関係を断ち切って、一人で神の前に出る方が良いと思う時があるかもしれません。しかしそれは、主イエスの愛によって神を知る道ではありません。愛なる神のみ前に共に礼拝をささげるとき、私たちは神の愛にあずかり、そこに互いに愛し合う群れが造られていくのです。
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2018年11月18日

「人をさばくな」

マタイ7:1〜6 島津吉成師
1.「人をさばくな」とは
イエスさまは、「人をさばくな」と言われましたが、どんなことであってもさばいてはいけない、ということでしょうか。子どもが間違っていることをしたとき、親は、「それは間違っている」と言わなくてはなりません。イエスさまは、そのようなことも禁じておられるのでしょうか。
イエスさまは、別のところで「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」(ヨハネ7:24)と言われました。私たちは、うわべだけを見て、人をさばいてしまうことがあります。そのとき、私たちは、自分には甘く、人には厳しくなりがちです。また、感情的になって、早急な判断をしてしまうこともあります。イエスさまは、そのような形でなされるさばきを戒めておられるのです。
2.梁を取りのけなさい
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」とイエスさまは言われます。イエスさまというお方は、ユーモアのあるお方だなあと思います。「目の中に梁がある」という絵を想像してみてください。ユーモラスですよね。互いに裁き合って感情が高ぶっているとき、必要なのはユーモアのセンスです。ユーモアは、心に落ち着きとゆとりを与えます。
ここで「梁」と言われているのは、「罪」のことです。自分の中に罪があるということに気づきなさい、とイエスさまは言われるのです。「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と言われていますが、罪を取りのけてくださるのは、イエスさまです。イエスさまの十字架の恵みが自分のためであったとわかるとき、目の中の梁が取りのけられるのです。そのとき、「はっきり見える」ようになります。神さまの愛がはっきり見えるようになります。また、自分が感情的にさばいていた人に対しても、神さまがどんなに深い愛をもって愛しておられるのかが、はっきり見えるようになります。そのとき、その人への接し方が変わっていきます。間違いを指摘するときも、その人のことを思って伝えるようになります。そのような言葉は、相手に届くのです。
3.豚に真珠
「聖なるもの」「真珠」とは、十字架の恵みのことです。それを伝えても、足で踏みつけ、かみついてくる人がいるというのです。そのような人に対しては、言葉で伝えようとしても伝わりません。背後で祈り、後ろ姿で証ししていくことが大切です。

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